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猫柳草庵

猫柳の隠れ里にある、庵です。 よろずのことを語るブログです。 政治やら思想やら宗教の話もするから苦手な人はスルーしてね。

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結局消す

つまんねー小説のレビュー書いたってつまんねーよ。(まぁ、もったいないから記事1個にまとめたい)
 やっぱ火星が近いから頭がおかしくなっていたんだな。

 でも、書いてみたら、今の文学だのアカデミーだのなんだのの本質的問題は理解したし。
 結局、「質の悪いホモソーシャル」で回ってるんだよな。
 あなた方にとって心地いいソーシャルかもしれませんが、こっちはドン引きですよっていう。


 関係あまりないけど、Twitterとかで、ネトウヨもリベサヨも人間関係やリーダー格を遡っていくと、上級官僚だったり大学教授みたいな人がリーダー格だった、みたいなことばっかりな世の中と同じことだよ。ついでに、ネトウヨのリーダー格ってみんなインテリ冷笑系だったていうかさ。
 社会科系の大学の先生ってなんか嫌な人間関係の人が多いんだよな。側から見ていて。(講義受けているだけの生徒を妙な政治系の学会に入れようとしたり。二流三流大学の生徒なんてどうせ捨て駒じゃろう)

 社会の劣化、だとかそういう言い方もできるけど、実際はもっとこう、えげつない権力争いでそういう社会言論を構築してるんだろうな、と。
 簡単に言えば、官僚内部の学閥争い、みたいなさ。
 
 しかし、官僚内部の力関係のために世論形成をするのは全世界の世の常なのはわかるよ。だったら、もっと頭良さそうで迷惑じゃなくて質の良いことをしてほしい。

 想えば、「踊る大捜査線」が流行したあたりからこの国おかしいんだよ。(ついでに、所轄の警察官ならレインボーブリッジは簡単に閉鎖できるらしいよ)。刑事ドラマって、お涙頂戴かカーチェイスがド派手! とかの方がいいと思うんだよね……。あれって刑事っていうか「捕物帳」の現代版でしょ?
 あと、「シン ゴジラ」も、なんか、官僚様たちの脳内の理想の職場を思い描いている感じがして 非常に、薄気味悪かった。映画もそうだけど、褒めてるメンツも。
 あれも、結局、ワシら大衆が選挙で選んだ総理なんて何も言わない無能がよくって、官僚だけでゴジラを倒すぞってはなしでしょ? もっと薄気味悪いのは、スパコンを貸してくれるのがドイツなんだよね。まだアメリカ中国ならわかるよ 当時、スパコン世界1を競っていたのは米中だからさ。 ドイツのスパコンだったら日本のスパコンのがよっぽど頭いいじゃん。てか、なぜ世界中のコンピューターをつないで! みんなおらに力を分けてくれー! じゃないんだ。でも、法学部の教授ってドイツ帰りが多いんだよねっ。

 シン ゴジラみてて、恋愛描写、古代文明、なぜか怪獣の正体を知っている研究者、おなじみの「パパの嘘つき!」みたいな展開、全部怪獣ドラマに必要だったんだなぁ、って思った。
 
 
 

 TwitterもFacebookもやったら、こんな人が見てるかどうかわからんブログよりいいんだろうけど、やりたくないんだよな。
 政治の話ばっかするのが一番フォロワー稼げるし、でも、それはやりたくない。
 それに、今となっては、ネトウヨもリベサヨも嫌いだから袋叩きにあう未来しか思いつかない。

 あくまで、文芸が主で、政治が従なんだよ、私の中では。
 文を説明するのに、必要だから政治の話もしなきゃならん、みたいな話。だもんで、古代中国やら明治やら江戸やらの話しかしたくない。
 


 
 でも、どんな国でも内部から崩壊するのであって、外部にやられた国って、よほどの小国でないかぎりないんだよなぁ……。
 

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書評 武曲 4 実存VS観念 剣道の歴史と朱子学

これまでの書評

書評 序文

書評 1

書評 2
書評 3


 やっと朱子学の話ができるぜ……。

 別に、剣道連盟が好きっつーこともないし、武道と日本、しいていえば、これらの政治的問題だとか、そういうのがあるのもわかっているし、いや、分かっているからこそ書くんだけどね。
 色々あったからこそ、勉強するのが楽しいじゃないですか。
 これ、意外と現代に続く問題だったりしますからな。
 あと、ヤフオクで昔から欲しかった明治書院の大判の近思録をせってます。



 「剣豪小説」と「剣道小説」は似て非なるものであり、むしろ、その性質としては百八十度違うものだと言っていい。
 前者は実存主義であり、後者は観念主義だ。
 剣道が問題にしているものは「剣の理法」であり、これは観念的なものだ。
 剣豪小説は、性質的に漫画でいう「格闘漫画」に性質が近い。後述したように、格闘漫画はなぜ格闘漫画たりえるのか。それは本質的に実存主義だからである。
 寺山修司が書いた「
あゝ、荒野」はボクシング小説であり、それ故に、小説として成立している。
 文学的に最も美しい勝利とは「ノックダウン」の状態だ。これは実存主義こそが七十代大の文学の主流だったからだ。
 例えば、木刀で相手をぶん殴って相手が死にかけて意識を失えば、それは確実に「勝利」である。この構造は言ってしまえば、ものすごく実存主義的な勝利である。相手は自由の根本である意識を失うのである。意識がなければ相手の世界は消えたも同然である。
 同時に、これは格闘漫画において、「判定負け」があまり存在しないのと同じようなことだ。
 剣道の試合においてそのような地平は存在しない。いや、あったらまずい。それだけではない。それが勝ちか負けかを決めるのは審判であり、審判が、どちらがより「剣士」として成立していたかを競っている。これは先立って理想的な「剣士」の本質があり、実態はあとに伴っている。
 実存主義小説作家が安易に剣道を内部に取り入れれば、剣道の観念主義的な部分と、小説そのものが水と油のように弾き合うのは目に見えている。
 そして、現代剣道の発展形成と、日本の政治、思想、は並々ならぬ関係があり、それを「ファシズムっぽい」の一言で片付かないのは明白であり、問題はもっと複雑である。
 




 そもそも、現代剣道の成立の過程は複雑であり、江戸時代に存在した主流の剣術流派について考えなければならない。
 中でも大きな流派といえば、北辰一刀流である。
 そもそも、北辰一刀流が朱子学を基本に置いた剣術流派であり、現代的な剣道に大きな影響を与えている。
 北辰一刀流は江戸時代において一種の革新的道場であった。
 禅と結びついた日本武術の道場は、いってしまえば、神秘主義的であり秘密結社化し、メンバーや内部ルールがわかりづらく、とても閉鎖的なものだった。
 それにたいして、北辰一刀流は、朱子学を基本に起き、広い階層を受け入れ、合理を重じた修行方法で、他の道場なら十年かかると言われたところを五年で済む形式にした。
 そして、かつての武術道場とは、段が上がるごとに、先輩やら師匠やらに金品を送るのが定例だったが、北辰一刀流は目録制度を行なった。それにより貧しい家の出身者でも、実力さえあれば昇段できる環境であった。

 現代剣道の成立に至るまでには、江戸時代に多く存在した流派が近代化に伴って国家に回収されていく動きが幾度もあった。
 明治初期には剣術家は廃業を強いられ、興業つまり、見せ物にさえなっていた。西南戦争時に警視庁の抜刀隊が活躍したことにより、剣術が見直される。その後、平安遷都千百年を記念し、大日本武徳会の成立する。
 実のところ、剣道という言葉が一般化するのが、その後の明治四十四年、剣道が中等学校正科で教科として正式に決定した後のことである。
 そして、武道も同時期に使われるようになる。
 そう、武道という概念は比較的最近定着した用語であり、明治以前、主に江戸時代では武術、剣術、撃剣などと呼ばれていた。
 その後、敗戦に伴い、大日本武徳会は解体され、サンフラシスコ講和条約が締結されると、全日本剣道連盟が成立する。
 民主的なスポーツであるとされているが、やはり今でも、剣道は武道なのかスポーツなのかという問題に決着はついていない。
 
 そもそも、日本人と剣という概念の関わりは長い。
 歴史が長いからこそそれを俯瞰するとなれば、あれこれ複雑な問題が潜むのである。

 ちなみに、ここら辺の歴史は、私がかつて藩校について調べていた副産物的なものなので、専門的におこなったわけではない。っていうか、大学に行ってもあまり本がない。そもそもあまり本がないのかもしれない
 
 話を戻すと、そもそも、江戸時代における武士階級の学問の第一は儒学である。その中でも、昌平坂学問所で教えられていた朱子学が主流であり、江戸時代には日本独自の朱子学が発展する。(一部の藩校では陽明学だったり国学だったり、藩校のレベルになるとちょっと多様性がある)

 しかし、学問の主流は林羅山とその門下であり、徳川幕府のイデオロギーとはこの林羅山から始まる日本朱子学であったと言える。

 同時に、林羅山は神道と儒教を同根のものとしてとらえていた。

 江戸時代とは日本における思想の時代であった。

 江戸時代とは誰が作った時代かといわれれば、私は林羅山が作った時代だと答える。



 話が脱線した。
 しかし、ろくに売れてもいない小説の批評より、林羅山や山崎闇斎や荻生徂徠や伊藤仁斎の話をしてる方が楽しく有意義に決まっている。


 疲れたから明日にしよ。
 
 
 
 
 
 

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書評 武曲 3 剣豪小説だったの? これ

これまでの書評

書評 序文

書評 1

書評 2



 誰に対しても需要なんてないと思うんですよ、この小説の書評って。
 そもそもベストセラーとかじゃないし。映画もぽしゃったし。
 でもね、読んであまりにひどいと感じたので、読んでから一年ぐらい経ってるのに、まだ怒りが収まらないわけですよ。
 こんなことやってないでね、届いた漢詩大系の詩経上下を読めって話なんですよ。
 でね、
詩経読んだら、春秋読まないといけないんですよ。
 衛の国やばいよ。人間関係がどうかしてるよ。
 そうだ、武曲だ。
 でもね、この書評書き終わらないと先に進めない気がするんですよ。
 驚いたことにまだ四合目ぐらいなんですよ。


 

 この小説はね、大人側に常識がないせいで「青春小説」じゃなくなってるんですよ。
 そして「剣道小説」としても失敗してるんですよ。
 かといって「HIPHOP小説」にもなってない。
 「父帰る」みたいな親子の葛藤を描くのにも失敗している。

 で、これね、改めて調べると、一番始末の悪いことに「剣豪小説」って言い張ってんですよ、売る側は。
 

 
「剣豪小説」って言いながら、舞台が現代ってなに?


 
 「宮本武蔵」にしても「大菩薩峠」にしても、舞台は現代じゃないでしょ。
 そりゃそうですよ、成立しないもん、そもそも。戦国時代でも幕末でもないし。

 よしんばやるんだったら「餓狼伝」ぐらい、ありそうでありえない舞台設定を作ってくれよ。なんかこうさー、よく夢枕獏がやりそうな、将軍家を守るための剣術VS天皇家を守るための剣術! みたいなやつとかさ。
 日本の中でもすごい権力者がついてて、治外法権だから殺し合いOKみたいな。
 もう、あれだよ、武道館の地下に地下闘技場あることにしてくれよ。
 宮本武蔵のDNAから体を作って、イタコのババアのキッスで目覚めさせろよ。
 
 だいたいね、現代で剣豪をやろうと思ったら「殺し合い前提の闇試合」するしかないじゃん。
 むしろ、なんで、強いやつに会いに行く形式の、闇試合をけしかけては相手の頭をかち割る、みたいな小説にしないんだよ。
 
「剣豪小説」ってなんだよ。

 剣道の普通の試合すらしてないのに
「剣豪小説」ってなんだよ。
 
 結局あれだよ、狭いホモソーシャルコミュニティで、あーでもないこーでもない和尚さんありがとー、ってやってるだけなんだよ。

 

 「大菩薩峠」なんて、あれだよ、主人公マジのサイコだからね? むしろ、そこが面白いんだよ。相手をその気にさせるためにあの手この手だよ。新撰組まで出てくるよ。冒険活劇でもある。
 作者の中里介山なんてwikiまでおもしろいよ。
 これを読むと、「大衆娯楽向け小説」の成立に、いかに自由民権運動や社会主義運動が関わってるかわかるよ。
 つまり、「剣豪小説」ってもっと深いものなんだよ。

 「剣豪小説」は娯楽小説なんだよ……。だったらちゃんとエンターテイメントをしろよ。
 だったらちゃんと「大衆向け娯楽小説」を書けよ。
 なんか、妙なところで芥川受賞作家面してるせいで
「剣豪小説」に対してすごく失礼な態度になってんだよ。
 
「剣豪小説」に権威なんていらないんだよ。

 「大衆向け娯楽小説」をちゃんとやれないってことは、やっぱり芥川賞作家って大衆を見下してるんだよ。大衆が喜ぶような漫画的展開をダサイとか頭悪いとか文学的じゃ無いとか思ってるんだよ。
 でも、
「大衆向け娯楽」に文化的に負けてるんだよ。品質も負けてるの。

 ワンピースの方がよっぽど、そこらへんの文学ぶってる小説より、ストーリー構成にテクニックがあるんだよ。ワンピースっていう「世界の果てに 海賊王のお宝がある 自由を目指すなら それを狙いに行くんだ!」っていうテーマと謎と目的を同時に提示できるアイテムを作ったのはすごいんだよ。そして、よくある長期連載と違って、120巻で終わるって作者は言い張ってるんだよ。60巻が折り返しだと思うと、あそこでエースが死んだのはすごい構成なんだよ。
 「シグルイ」だって南条範男の原作をすごく読み込んで形にしてるんだよ。そこにただ残酷なだけじゃなくて、封建社会のほうが人を切るより残酷だっていうメッセージがあるんだよ。
 
「大衆向け娯楽小説」である「餓狼伝」のほうが、よほど面白いし、ギリギリの戦いをしてるんだよ。

 

 むしろね、本当に現代を舞台にして、「剣豪小説」をやるんだったら、すんっごく面白いですよ。ナンセンスだし、徹底的に法律や国家というものに喧嘩を売ることになるしさぁ。

 もうあれだよ、かたっぱしから現代の強い剣士の頭をかち割りゃあいいじゃないか。相手をその気にさせるために、悪行の限りを尽くせばいいじゃないの。

 そこまですると、映画「太陽を盗んだ男」みたいなナンセンスさが出てくるじゃない。最後はどっかの山小屋で立てこもって、自爆! みたいなさ。
 
 

 なんかね、「何小説」として読んでもすっきりしないの。
 こんなすっきりしない小説は無いと思うよ。

 これ、下手な上に負けた小説なんだと思うんだよな。 
 「剣道」で書こうとして、失敗して、「剣豪」っていうことで誤魔化すみたいな。
 つまり「剣道」っていう概念に負けたんだよ。この小説はさ。
 
 

 
 

 
 
 
 

 
 
 

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書評 武曲 2 内容的問題

これまでの書評
書評 序
書評 1




 何がひどいって、常識がないのがひどいって話なんです。
 まぁ、私がピーナッツキングの支配する千葉の常識で生きているからですかね?
 鎌倉ではそうなんですかね?

 しかしですね、この常識のなさ、言い方を変えれば、世間の無さ、世界の無さ、他者の無さ、この外部性の無さが、ひどいレベルなんですよ。
 
 例えばですよ? 属託の部活コーチがですね、何があったかわからないけど、高校生と決闘して、高校生を半殺しにした……。
 これ、警察沙汰にならないのおかしくないですか?
 この小説、一切、ならないんですよ。
 そもそも、事件性のある重症人が運ばれ来たら、病院って通報する義務とかあるはずでは?
 普通に考えた、校長の首が飛ぶレベルの不祥事ですよ?
 
 1万歩譲って、ここで警察沙汰になってね、アル中が逮捕されてね、高校生側が「警察は俺のいうことを何も聞いてくれない」「俺は合意の上でやったことで後悔なんてないに」とかねいうならね、あとの昇段試験のシーンの「ファシズムっぽい」って意味がわかるんだけどね? んー。やっぱりわからん。
 結局、なーんにもならないの。
 そのまま退院して学校行くのよ、こいつ。
 法律とか、ないの? って思うわけ。

 坊主は坊主でアル中甘やかして、頭丸めさせてさー、それ、犯人隠匿罪では?。
 てか、アル中、親父の頭もかち割ってるから、二人を殺しかけたとんでもない犯罪者では?
 
 なんていうのか、本当に、全体的に「法律」みたいなもんがないのよ。
 外部がないの。
 つまり、社会がない。
 こんだけ社会がないと、人間って悩んだりしないよねーってぐらい、社会がないの。

 これ、確信したけど、男には男の 食堂かたつむり、みたいな都合の良い妄想世界があるよね? 
 


 言っておくとね、親子の葛藤ってなんで起きるのかっていったら、親子っていうのが、人間が最も最初に獲得する社会だからですよ。そして、親の社会が、子供の社会を決めてしまうからですよ。
 多くの場合、貧困問題や文化格差もここに起因しますよね。
 そして、親からは体ももらうわけですよ。
 だから、もしかすると 自分の親は本当は違うのではないか、とか、自分は妾の子供だ、とか、親を乗り越えることができない、虐待されて育った、みたいなことが、人間存在の基本を揺るがしかねない悩みになるわけですよ。
 なにせ、強制的に与えられる、人類最初にして最大の社会が家族だもの。

 社会なんかねーや、外部なんてねーや、みたいな世界ではね、そもそも比較対象がないんだから、悩みようがないじゃん。
 だって、毒親に育てられた人って、「社会に出てから本格的に親がやばいって気がついた」とか「結婚してから気がついた」って人が多いでしょ?

 これが天秤みたいな話でね、主人公二人がいて、片方が親との葛藤を抱えていた場合ね、もう片方は「ものすごく愛されている子供」や「他文化の出身」「似たような悩みを持つ」とかでないと、比較しようがない。

 これ、孟子のさ、萬章章句上の1に出てくるような、人類最大の問題なんだよ?
 「舜往于田、號泣于旻天、何爲其號泣也」ってことだよ?
 でもさ、この話だって、自分が王のような立場になり、人に礼を教え、率いる立場であるからこそ、親に愛されない自分の心が余計に傷つくんだって話だよ。
 自分がいい政治をすればするほど、人と人とは慈しみあうんだから。
 それも、のお父さんってさ、目が見えないからこそ再婚したんだよ。その母親ががとんでもない毒親なんだよ。でもお父さんだって、それは、もう、息子のことを考えたから再婚したと思うんだよ。だけど、その母親にしてみても、自分が産んだ子のほうがかわいいじゃん。こんなのどうしようもないじゃん。
 自分は民に結婚の礼を説かねならない立場なのに、親子関係が破綻してるから、自分はそれができないんだから。それができないからこそ、妻に対する思いは複雑だよ。
 社会があればあるほど、こういうのって複雑になっていくんだよ。
 


 この小説で一番いらないのはね、映画だと柄本明が演じる坊主なんですよ。
 こいつが二人を掌で転がして、社会に出さないから、テーマがぼやけるんですよ。
 外部性を否定して、出てくる女はみんな都合が良くて、そのくせ無頼を気取っているっていうね。で、なんかあると仏教用語だして誤魔化す、と。
 坊主が巧みに人を操って、社会との衝突をふせいで、二人を傷つかないようにしてるんですよ。
 そんな状態で手に入れる救いなんてね、偽物ですよ。

 簡単にいうと、これ、ホモソーシャル小説なんですよ。

 そして、そのホモソーシャルっていうのが、未成長の男らしさからくる甘えを全部吸収してくれる狭い狭い交友関係なんですよ。
 逆説的に、すんごく女々しいの。
 登場人物がっみんなっ。

 この小説が一番嫌いなところはね、登場人物がみんな「女々しいのっ」。
 なんか、悩んでるフリしてるだけなの。
 

 例えば、アル中、自分の母親が母親じゃないって知って泣いて父親に感謝するだけからね? 私ならおとん殴りに行くと思うし、一生許さないし、むしろ殺した方がよかったって思うよ。 っていうか、自分の子供じゃない子を育てた戸籍上の母親が一番の被害者じゃないのか? 逆に気が狂うわ。
 結局なんだ、お前、母親でさえ、ホモソーシャルのための生贄なのかよ……と。

 高校生のほうは、なんか、あれだー、昇段試験を蹴って、これはこれで試合だとか、まーそーゆー、社会を自ら蹴ってるもんな。
 


 またまた、書くけど、 60近いおっさん、大学の講師、芥川賞受賞、作家キャリア四十年近く、がこれだよ?  
 これね、日本小説における最大の問題点なんだよ。
 結局ね、多くの小説が、ホモソーシャル小説なんだよ。
 ステレオタイプの女! 昭和から変わらぬ喋り方の女! いまだに飲み屋にいる着物姿の女! 男の悩みをなんでも吸収するオムツみたいな女! 


 いやいや、そんな、いい大人がそんなこと書いて……。


 
 
 
 
  

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書評 武曲 1 あらすじ

これまでの書評
 書評 序

1 あらすじとか

 藤沢周という作家を知っていますか? 知らないのが普通です。村上春樹とか村上龍とかと比べりゃ全然知名度ないからね。
 ただ、この人九十年代のJ文学に分類され、なんだ、珍重されたっていうか……。
 この人、たしか、法政大学で経済とか教えているはず。
「ブエノスアイレス午前零時」で芥川賞を受賞しとります。ええ、芥川作家です。
 なんのかんの言って、ずっと出版はされとるわけで、いろんな著作があります。
 良いことを言えば、この人の文章、読みやすいです。ただプロットが破綻した、「結局なんだったの?」 と言いたくなるようなストーリーの小説ばっかり書いています。
 しかし、この、微妙な知名度、その割に根強いファン層、いろんな著作、読みやすい文章、破綻したプロット……。
 そう、私が一番、横光利一に似ていると感じる作家は彼なのです。


 「武曲」ね、まぁ、内容に一切触れないのはあれなんで、簡単な紹介をします。

 舞台 現代の鎌倉。
 ヒップホップ好きの高校生が、剣道部員の竹刀を踏んでしまったところから、無理やり入部させられる。(ここら辺からついていけない)スラムダンク的な感じで才能あるんじゃね? みたいな扱い。舞台もスラムダンクだしね。
 その高校に、アル中気味の警備員の 部活のコーチがいる。こいつは古武芸者みたいな感じの親父とようわからんが決闘をし、親父の頭を木刀でぶちかまして植物人間にしてる。(もうわからん)
 高校生、寺の坊主に剣道具一式もらう。(な、なんなの、お稚児趣味でもあんの?)
 んで、中弛み気味な色々をへて、二人がようわからん理由で決闘、高校生半殺しに会う。なんか、ようわからん理由で木刀持って雨の中で本当に打ち合う。
 で、そのことが表沙汰にもならず、うやむやになり、なんだか知らんが和解する。鎌倉の警察と教育委員会なにしてんの? 
 その間、二人の世話をしてるかんじの坊主が説教したりする。アル中反省して頭丸める。しかし、坊主、お前、犯人隠匿罪とかにならんの?
 親父が死に、アル中の方がひょんなことから一度顔をだしていた大船の居酒屋のおかみさんが「本当の母親だと知る」で、なんだかわからんが、アル中、再起を誓う。(……)
 で、高校生の方は昇段試験で「なんかがなんか、ファシズムっぽい」的なことを良い、不真面目にやって昇段できない。(ここ本当にわからん)

 簡単にいうと、
 高校生 アル中 坊主の三人がメインキャラクターです。

(これが文庫本で300ページ以上かかる)

 この二人が主役の一人称視点の小説で、この二人の視点が行ったり来たりします。(これのせいで本当に読んでて混乱する。

  ……食堂かたつむり よりひどくない?

 
 で、「武曲」読んだ、最初の感想は「なんだ、これ? 私 何を読んでたの?」だったんです。この思いをAmazonレビューとかに書き殴っても良いんですが、Amazonレビューにあれこれ書き込んでいる人に幸せそうな人を見たことがないので、きっと風水が悪いのでしょう。
 で、この「モヤモヤ」感の正体はなんだろうかと考え、私はふと、恐ろしいことに気がついたのです。
 これ、誉田哲也の「武士道」シリーズと同じ失敗をしてない? とな。
 あっちがネトウヨ的ぶっ壊れをしたのに対し、こっちはリベサヨ的ぶっ壊れ方をしている……。
 もしかすると、……剣道って小説という媒体とすごく相性が悪いんじゃないのか?
 この書評の本題はここです。
 ここの説明をするために、小説概念受容の歴史、小説概念と実存哲学の関係 を語る必要があったんです。

 ですが、まずは内容的な問題を最初に。


 言っておきますが、私に剣道経験はありません。なんで、剣道の分野に関する文句ではなく、あくまで「この小説、出来が悪すぎる」ってところからの文句です。

 とにかく、とにかくですよ、何が起きているのかわからないんですよ。
 ストーリーを追えないっていうのか……。
 あんた、どこでなにやってんの? っていうのがわからない。
 で、何がストーリーの主題なのかもわからない。
 別にね、象徴的だったり記号的なモンを書いているならいいんですよ、まだ。
 例えば、村上春樹に「騎士団長ってなんだよ、はっきり書けよ」とか言わないでしょ?

 これまた、始末の悪いことに、おそらくね「映画ありき」で書かれているんですよ。
 そうです、この小説、映画化されているんですよ。
 作家はだからこそ「わかりやすいプロット」「分かりやすい人物描写」「作り込まれた人物の背景関係」「緻密な舞台設定」「時系列ごとに並べることが容易なエピソード」などに気を配る必要があると思うんですよね。撮りたい映画が実験映画ではない限り……。
 なんていうのか、行き当たりばったりのストーリーなんじゃないの? っていう疑いが終始拭い去れない……。ちっとも「始まりはこうで、終わりはこう、主人公たちのバックボーンは」とか考えないで書いてると。
 なんだかなー、剣道連盟あたりから金をせびるために「武士道」シリーズみたいなもん描いたらいいべさ、みたいな……。その割には妙なところをノリノリで書いてそうな、というか……。
 しかもこれ、高校生がひょんなことから剣道を始めることになるっていう、一見、青春小説っぽいんですよ?
 まぁ、元からこの人の作品ってこんなんばっかりなんですけどね。
 
 で、この小説の構造的問題はね、アル中側の人物背景が重たすぎる、っていうのがあるんですよ。そのせいで、片方の主人公がぼやけてるの。
 二人主人公がいるとしたら、どちらも同じぐらい、人物背景や人物描写がないと、片方が片方を引き立てて終わるだけなんですよ。読んでる方からしてみたら!
 高校生の方のね、家庭とか、何にもわからないの。母親がハンバーグ作るぐらいだよ! こっちがわかるのは! ってかね、普通さ、息子が得体の知れない坊主から剣道具もらったら、札びらもって、返しに行くよ、私なら! で「うちの子に近づかないでください!」だよ。んでもって、剣道部にもいって「何が起きてるんだ! 一人一人申し開け!」だよ。そんなの。だって怖いもん! いきなりさー、息子がさー、他人からさー新品なら数十万するようなさーものをもらってさー……それが宗教関係者。怖いだろ、普通。
 
 もー、全面的に、こういうツッコミを入れたいわけだよ。
 
 これがねー、20歳ぐらいの子がねー、世間知も常識も教養もなく書いているならねー、文句もないよ。
 60近いおっさん、大学の講師、芥川賞受賞、作家キャリア四十年近く、がこれだよ? 
 別にリアリズムこそ至上なんて思ってないよ。
 いいよ、カフカ的な不条理は好きだよ!
 ただね、これね、別に不条理小説じゃないんだよ! だからね、常識がなさすぎるとね、逆に、これ、なんか意味あるの? って思うじゃん? ないんだよ、別に。
 例えば、「三体」だってさ、ある程度常識的なところから、明らかに異常なことになるから面白いんだよ。 はなっから北京に三体星人が大量にいて、不条理なのが普通、なんてことになったら、読んでられないよ。常識が次々と覆っていくからストーリーがあるんだよな。普通。で、その常識の剥がれから、そもそも私たちが生きている「常識」や「歴史」とはなにか、が浮き上がるんだよな?

 そもそも、青春小説に、異常で常識知らずの集団出すなよ。


 もう一度書くけど、 60近いおっさん、大学の講師、芥川賞受賞、作家キャリア四十年近く、がこれだよ? 

 どうなってんの? この国。

 

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