そもそも、文章を書くと言うことは、当人の観念を形にする作業なわけです。
特に、小説と言うものは、当人が「小説の空間」を作り出し、「小説の登場人物」を創出し、「小説のエピソード」を創作しているわけで、そこらのエッセイや評論文とは比べ物にならないぐらい、当人の観念が噴出するわけです。
二次創作でもその行動に変わりはないと私は思う訳です。
その人が世界をどう捉えているのか、認識しているのか、社会をどう考えているのか、文章を書くとそれがありのままになってしまう訳です。
とくに、認識が出てくるわけです。
映画と違って、当人の頭脳の目に見えないものは書けないわけです。
正確に言えば、それをどう「言うのか」わからないものは「簡単に」書けないわけです。
一つ一つの文章が、その人が今まで何を見てきて、何を聞いてきて、何を感じてきたのかの結果なんだと。
だからこそ、文体が同じに感じる、と言うことの、薄気味悪さがあるのです。
文章を書くと言うことは、意識しなくても思想的な行いになるし、政治になる。
それを突き詰めていくと、自己批判と自己陶酔のミルフィーユ状態になる。
これをこう書くのはなぜなのか、これをこうとしか書けないのはどうしてなのか。
こういった自己との戦いの果てに「文体」へのこだわりが出てくる。
世界と戦い続けた結果 「文章に下手な修飾はいらない」というのなら、それでいいわけです。その逆もしかり。
これはブログなんで、あれですが、最近、noteとかpixivでいろんな人の文章を読んだ結果が「なんか怖い」なんで、困ったもんだ。
簡単に言葉にならないんですが、なんていうのか、うまく型にハマることができない人の叫びとか、どうあがいても自分は「こうする」ことしかできない、と言う、一種の不器用さを感じないわけです。
イラストや小説がSNSの道具になってしまった、と言うことの怖さかもしれない。
。。。
下手すると、これ、今のオタクが同じようなものを吸収して、同じような頭だって言うことなんじゃ……。