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猫柳草庵

猫柳の隠れ里にある、庵です。 よろずのことを語るブログです。 政治やら思想やら宗教の話もするから苦手な人はスルーしてね。

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文体が一致することの怖さ

そもそも、文章を書くと言うことは、当人の観念を形にする作業なわけです。
 特に、小説と言うものは、当人が「小説の空間」を作り出し、「小説の登場人物」を創出し、「小説のエピソード」を創作しているわけで、そこらのエッセイや評論文とは比べ物にならないぐらい、当人の観念が噴出するわけです。
 二次創作でもその行動に変わりはないと私は思う訳です。
 その人が世界をどう捉えているのか、認識しているのか、社会をどう考えているのか、文章を書くとそれがありのままになってしまう訳です。
 とくに、認識が出てくるわけです。
 映画と違って、当人の頭脳の目に見えないものは書けないわけです。
 正確に言えば、それをどう「言うのか」わからないものは「簡単に」書けないわけです。

 一つ一つの文章が、その人が今まで何を見てきて、何を聞いてきて、何を感じてきたのかの結果なんだと。

 だからこそ、文体が同じに感じる、と言うことの、薄気味悪さがあるのです。

 
 文章を書くと言うことは、意識しなくても思想的な行いになるし、政治になる。
 それを突き詰めていくと、自己批判と自己陶酔のミルフィーユ状態になる。
 これをこう書くのはなぜなのか、これをこうとしか書けないのはどうしてなのか。
 こういった自己との戦いの果てに「文体」へのこだわりが出てくる。
 世界と戦い続けた結果 「文章に下手な修飾はいらない」というのなら、それでいいわけです。その逆もしかり。
 
 これはブログなんで、あれですが、最近、noteとかpixivでいろんな人の文章を読んだ結果が「なんか怖い」なんで、困ったもんだ。
 
 簡単に言葉にならないんですが、なんていうのか、うまく型にハマることができない人の叫びとか、どうあがいても自分は「こうする」ことしかできない、と言う、一種の不器用さを感じないわけです。
 イラストや小説がSNSの道具になってしまった、と言うことの怖さかもしれない。

 。。。
 下手すると、これ、今のオタクが同じようなものを吸収して、同じような頭だって言うことなんじゃ……。

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