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猫柳草庵

猫柳の隠れ里にある、庵です。 よろずのことを語るブログです。 政治やら思想やら宗教の話もするから苦手な人はスルーしてね。

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無題

 そういえば、三国史記の新羅本紀では、新羅の四代王の昔脱解が倭の東北一千里にあるという多婆那国(一般には但馬国とされる)の出身だと書かれ、古事記と日本書紀ではスサノオが新羅から出雲に渡って王となったとも伝わる。但馬と出雲に共通するのは、本州西部の日本海に即した地域だということ。
 対して但馬の位置から推定される倭は九州が想定されますが(奴国?)、こちらは百済と結び付きました。これも本州西部日本海側同様に新羅とも近いですが、百済との交易が容易。そういえば、昔脱解の子孫である昔于老を殺したのが武内宿禰なんですよね。

 朝鮮半島でも日本列島でも、複数の国々が戦争を繰り返していたはずですから、それぞれの思惑で縦横無尽に半島と列島の諸国がともに別々の国と別々に結びついていたことが想像できます。

出雲 is のっぴきならない場所でした

なんていうか、実際行ってみると、10時間ぐらいかかってたどり着いた茨城でした。
 これは本当に気候風土が似ている。
 実際、考古学的には、茨城から島根へ渡った人たちがいるということで、なんとなく納得。

 スピリチュアルな人が好きな感じの人が受ける印象とは別に、私は「ここは信仰以外の目的があって作られた場所だぞ」と実感。森の中にあるわけではなく、開けた山間にどーんとあり、伊勢神宮より歩かないから参拝そのものは楽でした。

 最初、出雲退所の元の形は、天体観測か宗教的な意味から作られたと思っていったんですがね、民族資料館みたいなことろに占星術的なものがないんですわ。まぁ、冷静に考えたら、日本はどこにいっても山があるから、山の上で天体観測した方が楽だよね、と。だって、山の上で空が綺麗だから、ハワイ島にいっぱい天体観測所があるわけで。
 それに、宗教的理由だったら、鎌倉時代から神社の建物の様式が変わるのは変だよね? と。

 これは宗教施設の皮を被った、物見櫓だったのでは? と。
 それと、国を譲る時に、自分の神殿が一番立派だと嬉しいから高くしろ、っていうのも。そもそも、ものすごく高く見積もって45メートルの高さがあったらしいので、そんなに高い建物を作る理由もよくわからない。立派か立派でないかという話をするなら、そもそも、多層的な建物が他の神社にはない。(つまり、現代人にとって三階建ぐらいで、十分高いと言える。45メートルというと、現代の建物でビル14階相当である。30メートルでも10階建ビル)
 しかし、あそこに45メートル級の建物があれば、周りの山全てを監視することができますわな。上り下りは当然足なんで、丈夫な屈強な男しかあの神社では働けないですな。(10階建て以上のビルを上り下りですからな)
 それに、何かを察知して、狼煙をあげたら島根中から見える立地でもある。
 それに、土地が開けているから、兵士を集めて出兵とかも楽だろうし。

 それと、夥しい数の鉾、鉾、鉾。
 関東の考古学資料館にはまず見ない数の鉾。
 あと、大量のどうたく。
 これが剣ならば、さすが神が集まる場所、と思えますが、鉾、となると話が違う。鉾は実用品ですからな。
 しかし、それが綺麗な形で出土している……。
 ここ、なんかの巨大な戦争の準備してない?
 つまり、出雲は、神(部族長)が集まって、普通ではない敵(しかも少し技術度が高い)と戦争の準備をする場所だったのでは? 
 民族の緩衝地帯だということが分かったのですが、そんなこと言ったら関東だって縄文土器も弥生土器も出るわけでね。

 それに、国譲りの最中、国津神と天津神である猿田彦とアメノウズメっていわゆる国際結婚してるんだよね。(で、これがなぜか、戦前、隠蔽されていた)
 だんだん、国津神VS天津神ではなく、国津神アンド天津神VS何か、って感じの話だったんじゃないかと思えてきた。
 これ、日本版の封神演技みたいな話だったのかも……。
 国津神VS天津神だったら、勢力的に負けたほうの家に集まる理由もわからん。大国主の
土地が敵地に近い参謀本部みたいなところだったから、というのがわかりやすいかもしれん。

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 そういえば、三国史記の新羅本紀では、新羅の四代王の昔脱解が倭の東北一千里にあるという多婆那国(一般には但馬国とされる)の出身だと書かれ、古事記と日本書紀ではスサノオが新羅から出雲に渡って王となったとも伝わる。但馬と出雲に共通するのは、本州西部の日本海に即した地域だということ。
 対して但馬の位置から推定される倭は九州が想定されますが(奴国?)、こちらは百済と結び付きました。これも本州西部日本海側同様に新羅とも近いですが、百済との交易が容易。そういえば、昔脱解の子孫である昔于老を殺したのが武内宿禰なんですよね。

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