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猫柳草庵

猫柳の隠れ里にある、庵です。 よろずのことを語るブログです。 政治やら思想やら宗教の話もするから苦手な人はスルーしてね。

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みんな法律を偉いと思いすぎ

別に法を破れとは言わないっすよ。やっぱり前科つくと面倒な気がするし。
 ただね、裁判官やら弁護士やらのいうことを、みんな重く受け取りすぎだよ。
 法律に期待をしすぎている。
 だれかに人権を侵害されても、裁判を起こせる行動力とお金が必要なんだから。100万払って引き換えることができるクーポンぐらいなものですよ。
 生きていくためにはある程度は必要な知識だが、それを超えるものではない。
 なるだけお世話になりたくないし、トラブル回避のために知識はある程度必要ってだけ。
 本当の意味で生きていく力を養うものじゃないよ。
 銀行とかと一緒でAIになる日は近いね。
(でも、どうしても必要だったら、行政書士必勝テキストとか一冊あるといいよ。アレにほとんどの必要なことは書いてある)
 
 法律の条文ひとつ知ってるより、詩を一つ知ってるとかの方が、余程”本質的な生命力”ですよ。

 
 
 

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世界は一度、閉じられるべきだ

そもそも、普遍主義と相対主義は両立するものではない。
 なんだか、相対主義を普遍主義を否定するものではないいう人がいるが、相対主義を正しいと思いながら普遍主義をやるのも、その逆も、欺瞞的な状況でしかない。
 神や天がいないということを理解しながら、まるでこの世に普遍的な永続的な価値観があると思い続けるのは無理がある。
 神や天がいるという確固たる確信があるのに、あらゆる価値観が相対的に扱われるべきだというのにも無理がある。

 相対主義と普遍主義のバランスが取れるという態度には、物事は突き詰めると、天や神の存在や不存在を問いかけることになるという覚悟が足りない。そういう覚悟なしに物事やるのは頭はいいだろうが、本質的な学びにはならない。
 別にそれは神や天じゃなくてもいい。
 ものの性質とか法則だとか、形而上的存在だとかだ。
 神のようなものと言ってもいい。
 これは一神教の神でもいいし、儒教や道教における天でもいいし、神道なら造化三神と言われるようなものだろう。
 
 しっかし、まだまだ世界は普遍的なものを成立させるには広すぎるし。
 一度、世界を閉じてみたらいいと思う時がある。
 それに、法律という価値観が強く人を支配しすぎている。

 と、いうのは、徹底的に”普遍主義”を問いながら”相対主義”を振りかざしている分野が、国際法の世界だからだ。
 戦争が悪ならば、全ての戦争当事国は戦争裁判にかけられるべきである。
 国際条約が絶対的に正しいのならば、それに”入らない”国を徹底的に糾弾すべきだ。
 しかし、とうの国際裁判所ってところは、領土に関して”歴史主義”と”実効支配主義”を都合よく使い分けているのが実のところである。そう、いい加減なのだ。
 おそらく、アジアの領土問題は、西洋人がついこの間作っただけの国際法では解決できない。

 この世で最も法律を信用してないのは法学者であり、法学者ほど天の存在を考えてない人々もいない。経済学者の方がまだ敬虔だ。

 天がないなら、全ての法律は人間が適当に書いた文章の塊でしかない。なぜそんなものが未来に向かって効力があるのと言えるのか。
 片山さつきあたりが天賦人権論をくさしていたが、これに大して徹底して「天が存在するからこの世に人権があるのだ」という法律関係者がいただろうか? なんか、みーんな歯切れが悪かったよね。そりゃそうだよね、片山さつきって東大だよね? じゃあアシベ憲法とか絶対読んでるし、それどころかそれぐらいの大先生に教わってるんだよね? って話だよね。
 どうせみんな「そんなオカルトめいたものはない」と思ってんだよな。

 えーと、法律の世界の根幹がないのなら、そのない世界で、いかに法律が機能しているのか、疑問に思わないのか。全てが人間の作ったものならば、それが未来に大して責任を取れるような性質のものだとどうして思えるのか。ましてや、それで生きたり死んだりしている。行政文章の一枚二枚で運命が決まる。
 みんなフィクションだったら、そのフィクションからみんなが覚めた時が年貢の収めどきじゃないか。

 言って仕舞えば、みんな「頭が良い」んだよな。
 意識的に嘘をつけるというか。
 
 で、じゃあ、どうしてみんな法律守ってんの? って話だよね。
 結局、あれだ、警察が怖いからみんな法律守ってんだって話だったら、この国で一番偉いの警察じゃん。しかも機動隊とかじゃん。

 これで、わたしは逆に「やっぱり法律なんぞに天意は宿らぬ」と確信したがね。
 そう、近代国家は警察組織でもってんのよ。
 近代国家産みの親フランスで警察組織も誕生したのが象徴的だよね。
 世界最強の覇権国家が、警察の暴力で大変なのもうなづける話だ。

 
 

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歴史と文学と コメント返信 

倭人さんから素晴らしいコメントが来たので、記事に返信を書きます。

 この頃の文学トレンド(折口、白川静から、古代文学の呪術性のサブカル消費)がまとまった返信をいただきまして、記事に書くことが無いぐらいなんですが、

 古代史と文学、それぞれにロマンがあるんですが、それを一緒くたにするのはなんか違うなーという疑問。その二つが持つ過度な政治性への批判。

 > そういえば、梅原氏はアイヌを古縄文人だと唱えたことが批判されてますし、実際ネトウヨって昔はアイヌをそういう方向で持ち上げてたんですが、氏の縄文人論って反植民地主義的な民族主義を主張する新左翼がアイヌの古い信仰や文化を顕彰したことの鏡合わせなんですよね。大日本帝国の帝国主義で犠牲になったアイヌや琉球には、もともとそれより優れた(可能性のある)前近代文化が存在した、と。そのヤマト版。画家の岡本太郎氏なんかもこういう系譜。日本は特に非西洋の帝国主義国家だったので、このあたりが結構フクザツで、極右と極左の合流地点みたいになったりする。縄文人と弥生人にさかのぼっての平和的な縄文人と好戦的な弥生人との二項対立による中国人や韓国人への差別もずいぶん見てきましたが、これって新左翼の用いた騎馬民族征服説なんかと認識が軌を一にしてたり。現存する社会問題と流行する学説は連動しているし、こうした流行の起こり方は大学の大衆化やマスメディアの発達に伴って起こった変化でもあるでしょう。

特にここら辺が素晴らしい。
ほとんど言いたいことを言われてしまったかんじである。

そもそも、シュリーマン以降、古代史への社会の目が変わり、古代研究、考古学の価値が固まってから、文学もそれに飲み込まれるように、古代文学への関心が高まった。西洋でも、詩経の考古学の知見を取り入れたオカルト解釈と同じように、考古学を取り入れたギリシャ文学や聖書の読み直しが起きた。
それが結果として過度な政治性を持ち、日本と同じようなことが起きている。
例えば、卍模様とか、あれもシュリーマンがミケーネ文明の遺跡から見つけてしまい、古代アーリア人種に対する優位主義が持ち上がってしまった。このマークの文化圏は思ったより広く、古代ブルガリア・ルーマニアから始まり、インド、イラン、そしてヨーロッパへと広まっている。
この古代史研究の成果が、政治に利用されアーリア人種第一主義へとつながる。

この場合は、ブルガリアで誕生し、世界に広まり、世界のほとんどの文明に影響を与えた! という民族優位主義へと繋がった。
これは、日本における古代縄文人への憧れにも近いものを感じる。
この場合は、弥生人は野蛮! 縄文人は平和的! という優位主義である。

これって、どちらも「古代人」を「現代人」の直接的な先祖にして、間にある複雑なものを全てを取り払っているのに違いはない。
つまり、物事の過度な単純化がおきている。
 
何人にしても、どんな民族にしても、数千年、数百年の間、他の民族や集団と共にいき、共に文化の交流をし、変わりながら生きてきた。突然、古代の生活がそこにある、なんていう場所はすごく少ない。
民俗学や人類学は、今生きている人の生活、にもねざさないと歪んでいく。
つまり、複雑さを失った時、大体がヤバイことになる。

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法律学は文学の子供 普遍主義と反普遍主義 

これはマジで言ってるんですが、文系の学問のトップは文学です。
 そも、日本初の憲法学者は文学博士です。

 物事の有用性でものの優劣がつけられている昨今、文学部と法学部では大体の学校で偏差値に雲泥の差があるんですが、それでも文学のが偉い。
 
 そも、憲法における大問題である『天』の設定において、日本の法学は失敗ばかりしとるし、そもそも、神と国家を分けたのが近代であるので、本質的に天が人に権利を授けているという構図は成り立たないのでは、という議論は成り立つ。
 この問題を法律学は解決できないだろうというのが私の見解である。
 文学(もっと言えば哲学)はこの問題を扱えるが、法律学では扱えない。

 法律学にとって天は外部的なものであるからだ。
 なんで、天の正体ってなんじゃ、となると憲法学者でさえ話を濁す。

 しかし、法律における絶対外部者 神(天)は、法律の永続的な権威、もといえば、正当性の設定においてかなり大きな影響……、と、いうか、神がいるから法律は永続的に正しいと保証されるので、神が設定されていない状態で法律を運営している現代社会は、法律の運営において大きな問題があると言える。簡単に言えば、誰が数百年後も何がしなにがしを死刑にした正当性を問えるのか、という問題。

 別にこの問題はローマ・カトリックの信者だから、とかって問題ではない。(カール・シュミットとかな)
 儒教においても大きな問題であり、鎌倉時代ぐらいから本邦でも法律理論として天の思想が重要視されてきた。

 こと、普遍的なものの設定は法律の”法源”の大いなる問題であるのだ。

 そんなもんないってのが人類学の遺産なんだから、法律にもうんなもんねーよと言われてしまえばそれまでである。しかし、反普遍主義を導入したらどうなるか、法律が正しいのは「警察が暴力を持っているから」というこれこれで問題のある結論になる。

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結局夏目漱石読んでりゃいいんだよ


 乱暴に言えば、日本文学は夏目漱石よんでりゃいいです。
 と、いうのは、夏目以降、夏目以前では日本語の構造が大きく違うからであーーーる。
 日本語は夏目以降、夏目以前で分ければいいのだ!
 で、夏目以降、夏目以前で何が違うのかと言えば、漢字の使用率である。
 そう、漢字漢語まみれの現代日本語は、夏目漱石が作り出した全く新しい日本語なのであーーーーる。
 これは、それ以前の、樋口一葉 坪内逍遥の小説を読めばよーくわかるのであーーる。読めないのでアーール。歌舞伎みたいな言葉遣いなのであーーる。

 つまり、現代日本語に漢文の素養が不可避。そういう構造にしたのが夏目漱石なのだ!
 一つの国の言語をここまで改造した作家は夏目ぐらいである。
 夏目以前の日本語において、漢字漢語というのは、武家ぐらいしか使い倒していないのだ。
 
 しかし、同時に、夏目漱石の政治性や思想的背景がめっちゃんこ複雑だというのも事実。
 実家の都合で東大で英語を学ばされたものの、本人は二松学舎で漢文をやりたかったらしいしね。
 『草枕』の背景には、前田案山子っちゅー自由民権運動家の存在があるわけだし。
 ここら辺の政治っちゅーのがめちゃ複雑なのである。

 そもそも、古典と現代文を分けるのがいけない。
 現代文は、歴史の結果生まれた、日本語の一形態にすぎないのだ。

 文字ー文法ー文章ー物語 というルートでしかものをかけないのだから、ものの基礎は文字であり、文法であり、文である。
 文字を使い一定のルールに基づいて書かれた文章の塊を、複合的に解釈することで生まれるのが物語である。
 本来の国語とは 書ー古典ー鎌倉から江戸時代の文芸ー現代文学、それらを一括りにしたものでは無いか。

 

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