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これまでの書評
やっと朱子学の話ができるぜ……。
別に、剣道連盟が好きっつーこともないし、武道と日本、しいていえば、これらの政治的問題だとか、そういうのがあるのもわかっているし、いや、分かっているからこそ書くんだけどね。
色々あったからこそ、勉強するのが楽しいじゃないですか。
これ、意外と現代に続く問題だったりしますからな。
あと、ヤフオクで昔から欲しかった明治書院の大判の近思録をせってます。
「剣豪小説」と「剣道小説」は似て非なるものであり、むしろ、その性質としては百八十度違うものだと言っていい。
前者は実存主義であり、後者は観念主義だ。
剣道が問題にしているものは「剣の理法」であり、これは観念的なものだ。
剣豪小説は、性質的に漫画でいう「格闘漫画」に性質が近い。後述したように、格闘漫画はなぜ格闘漫画たりえるのか。それは本質的に実存主義だからである。
寺山修司が書いた「あゝ、荒野」はボクシング小説であり、それ故に、小説として成立している。
文学的に最も美しい勝利とは「ノックダウン」の状態だ。これは実存主義こそが七十代大の文学の主流だったからだ。
例えば、木刀で相手をぶん殴って相手が死にかけて意識を失えば、それは確実に「勝利」である。この構造は言ってしまえば、ものすごく実存主義的な勝利である。相手は自由の根本である意識を失うのである。意識がなければ相手の世界は消えたも同然である。
同時に、これは格闘漫画において、「判定負け」があまり存在しないのと同じようなことだ。
剣道の試合においてそのような地平は存在しない。いや、あったらまずい。それだけではない。それが勝ちか負けかを決めるのは審判であり、審判が、どちらがより「剣士」として成立していたかを競っている。これは先立って理想的な「剣士」の本質があり、実態はあとに伴っている。
実存主義小説作家が安易に剣道を内部に取り入れれば、剣道の観念主義的な部分と、小説そのものが水と油のように弾き合うのは目に見えている。
そして、現代剣道の発展形成と、日本の政治、思想、は並々ならぬ関係があり、それを「ファシズムっぽい」の一言で片付かないのは明白であり、問題はもっと複雑である。
そもそも、現代剣道の成立の過程は複雑であり、江戸時代に存在した主流の剣術流派について考えなければならない。
中でも大きな流派といえば、北辰一刀流である。
そもそも、北辰一刀流が朱子学を基本に置いた剣術流派であり、現代的な剣道に大きな影響を与えている。
北辰一刀流は江戸時代において一種の革新的道場であった。
禅と結びついた日本武術の道場は、いってしまえば、神秘主義的であり秘密結社化し、メンバーや内部ルールがわかりづらく、とても閉鎖的なものだった。
それにたいして、北辰一刀流は、朱子学を基本に起き、広い階層を受け入れ、合理を重じた修行方法で、他の道場なら十年かかると言われたところを五年で済む形式にした。
そして、かつての武術道場とは、段が上がるごとに、先輩やら師匠やらに金品を送るのが定例だったが、北辰一刀流は目録制度を行なった。それにより貧しい家の出身者でも、実力さえあれば昇段できる環境であった。
現代剣道の成立に至るまでには、江戸時代に多く存在した流派が近代化に伴って国家に回収されていく動きが幾度もあった。
明治初期には剣術家は廃業を強いられ、興業つまり、見せ物にさえなっていた。西南戦争時に警視庁の抜刀隊が活躍したことにより、剣術が見直される。その後、平安遷都千百年を記念し、大日本武徳会の成立する。
実のところ、剣道という言葉が一般化するのが、その後の明治四十四年、剣道が中等学校正科で教科として正式に決定した後のことである。
そして、武道も同時期に使われるようになる。
そう、武道という概念は比較的最近定着した用語であり、明治以前、主に江戸時代では武術、剣術、撃剣などと呼ばれていた。
その後、敗戦に伴い、大日本武徳会は解体され、サンフラシスコ講和条約が締結されると、全日本剣道連盟が成立する。
民主的なスポーツであるとされているが、やはり今でも、剣道は武道なのかスポーツなのかという問題に決着はついていない。
そもそも、日本人と剣という概念の関わりは長い。
歴史が長いからこそそれを俯瞰するとなれば、あれこれ複雑な問題が潜むのである。
ちなみに、ここら辺の歴史は、私がかつて藩校について調べていた副産物的なものなので、専門的におこなったわけではない。っていうか、大学に行ってもあまり本がない。そもそもあまり本がないのかもしれない
話を戻すと、そもそも、江戸時代における武士階級の学問の第一は儒学である。その中でも、昌平坂学問所で教えられていた朱子学が主流であり、江戸時代には日本独自の朱子学が発展する。(一部の藩校では陽明学だったり国学だったり、藩校のレベルになるとちょっと多様性がある)
しかし、学問の主流は林羅山とその門下であり、徳川幕府のイデオロギーとはこの林羅山から始まる日本朱子学であったと言える。
同時に、林羅山は神道と儒教を同根のものとしてとらえていた。
江戸時代とは日本における思想の時代であった。
江戸時代とは誰が作った時代かといわれれば、私は林羅山が作った時代だと答える。
話が脱線した。
しかし、ろくに売れてもいない小説の批評より、林羅山や山崎闇斎や荻生徂徠や伊藤仁斎の話をしてる方が楽しく有意義に決まっている。
疲れたから明日にしよ。
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