四書五経 実学 虚学 この順番が正しいのです。
四書五経は古今東西の古典作品も入ると思う。
で、実学、これは社会的に利用できる学問。
最後は思想や形而上学、宗教、など。
私がちょっと思っていることは、あまりに”実学”を無視して、虚学を弄っている人が多すぎる! ってことです。
だから、自由と民主が両立しない! 俺は自由を選ぶ! とか言い出すわけです。
大体の経営者の自由って、マネロンとタックスヘイブンの自由でしかなく、それはその国の行政がそれを許しているからできるだけです。(簡単にいうと、シンガポールや香港への資産移転によって脱税できるのはシンガポールや香港の利益にかなっているので、シンガポールや香港の行政がそれを制度として行なっているだけです。自由ではなく、あくまでその国や地域の裁量によるものです)
つまり、実際が抜けているので何をやっても失敗するに決まっているのです。
民主は民主で、国家が作り出した制度でしかない選挙をよりどころにしているから、勝手に大衆に幻滅して「愚民どもめ!」とか言い出すのです。
はっきり言えば、選挙制度だってその国や地域の裁量によって行われているだけで、やりようによっては世襲議員ばっかりになります。
どんな制度で議員を選ぶかも、それはその国の行政の問題でしかないです。
そもそも、選挙制なんてアリバイ作ってるだけです。
実がなければ、議論はなんにもならんのです。
だので、虚学だけ弄ってる奴に付き合って、いざ運動を始めると、こんなんじゃなかったとなるわけだ。
何をやるにも、目の前に立ちはだかるのは、
行政
という名前の魔物です。
行政という名前の魔物を無視して、俺は勇者だと言われても困ります。
ただ、行政っていうものがなかなか民主的とは言えるわけで、なぜなら、高卒でも大卒でも院卒でも、公務員試験を受けないと公務員にはなれないからです。一部の職員なら外国人でもなれるわけで、これ、一般企業より民主的ですよ。
しかし、インテリエリートだらけの運動であった場合、その失敗は大抵あれなわけです。
http://s-scrap.com/4000
ここを見ればわかりますが、その運動の失敗による挫折感は、もろに庶民へ向けられます。
しかし、庶民を無視して、なにが民主なのかと。
庶民を味方につける努力なんてあんたら何もしてないじゃんか、と。
インテリエリートってのは、実に国家や行政、社会に疎いか。
実がないのでそうなる。
で、ここら辺から、私が文学を学び直している理由ですが、
まぁ、法学やったら、その世界の根底に薄気味悪いドロドロがあることに気がついたんですよ。
それは言葉の世界であり、観念の世界であった。
どんな人間も言葉に支配されている。
しかし、それは難解な法律用語ではない。
法律には外側があり、法律に意味があるのはその外側の問題だ。
そうですよ、実学の実は、虚学の虚に支えられているのですよ。