そもそも、走れメロス読めなくても死なないけど、契約書を読めないと死ねるのが現代社会なので、契約書も読めない大学生が大量にいるってなると国語教育に「実用国語を」つー気持ちはわかる。
しかし、現行の国語教育者に実用国語をできる教員が本当の意味でどれだけいるのか。
あれだ、契約書を読める国語の先生っているの? って問題。
契約書は法律用語の塊なので、そりゃあれだ、大学とくっついている教育機関なら法学部の先生連れてきたほうが早い。まぁ、そもそも、契約書が読めないという問題は、契約書に書かれている言葉と実際社会の言語が乖離しているからである。しかし、それはどこの国でも一緒。ドイツ法でも英米法でも一緒である。例えば、アメリカの契約書は「合衆国のなんたらかんたら法に基づいて」とか書いてあるし、たいていの法律用語は馴染みのないものだ。
簡単に実用国語が身につくのなら、誰でも法学部出れるわな。
じゃあ、現行の「教養国語」に文句がないのかあるのかと言われれば、文句は大有りである。
まず、大概の学校では、教養国語は文学の才能のないバカの解釈を生徒に押し付けるという結果にしかなっていない。
なにせわたしの学校の国語の教師に「こんにちわ」が正しいと思っているようなバカがいた。「こんにちは」が正しい。「こんにちは、とてもいい天気ですね」とか続く挨拶の省略した形が「こんにちは」である。「は」は助詞である。「こんにちわ」って書いていいのは16歳ぐらいまでだ、こんなバカが教師やって国語を教えているのが実情である。
美しい日本語とか、日本の伝統を守れ、とかではない。(個人的には、言葉は変化するものだと思っているし、これが例えば、何かを調べて国民の六割七割が「こんにちわ」を使っているから、もはや「こんにちは」ではない、とかならまだいいよ。)
国語学的に当然そうなる論理的結論である。そう、理論的問題だ。
つまり、お前国語の先生やってんのに最低限度の日本語の文法が頭にはいってねーじゃねーか、である。
笑えない冗談ではない、実話である。
たとえば夏目漱石の『こころ』だってそうだ。Kと先生の間には並々ならぬ、ひょっとすると同性愛的な関係があったのではないか、これは当然普通に読めばそう思うはずだが、それを国語の教師にいうと「そういう目線で読むのはよくない」と言われる。
まぁ、もっと突っ込んだ話をするならば「K」は夏目漱石本人ではないか、とか、そこまでして分捕った奥さんなのに全然先生は大事にしてない、とかそういうツッコミが入るのは当然であるし、そう読むものである。
そういう、主人公から見たら上の世代の人たちの微妙な生き方が、乃木夫婦の殉死と結びつき、社会と主人公たちとバイアスがかけられるというのが「こころ」という作品の肝である。はたして「明治」とはどういう時代であったのか、という作品であり、友情がテーマでもなんでもないし、冷静に考えれば、年増の奥さんと主人公が二人っきりになったりと、案外エロい作品である。
なんで、「そういう目線で読むもの」なのだよ。
はっきり言えば高校生が読むもんじゃない。
文学を教えるためには、その作品を最低50回は読まないとならんので、教養国語を押している側も大抵の教師はその域に達していないのではないか。
そもそも、「走れメロス」も箱根駅伝の話から入らないとわからん。しかし、箱根駅伝に出場する大学に行ける階層って……。
むしろ、「舞姫」より「走れメロス」の方が害悪だとおもうんだよな。
ヘッセの「車輪の下」も中学校受験の話だしな。(まぁ、今のドイツがどういう学校制度なんだか知らんが)
舞姫に出てくる社会階層って戦後の日本には無い社会階層だから、今となっては無い議論を蒸し返しているだけだと思うんだよ。そもそも、あれって男のほうにも結婚とか恋愛の自由がないからな、と。
教養国語は教養国語で、教養を作ってきた社会階層はどこだ、とか、日本の社会構造はどうなっているのか、という問題にぶち当たるぞ。(そもそも、国語の教科書って都立の名門校の先生とかの趣味がたぶんに入ってるじゃんか)
例えば、ドストエフスキーと万葉集は旧制高校の生徒のバイブル的なものだったとかさ。
しかし、同時に、戦後に入ると特に読ませる作品がないのも事実である。