芥川賞と言えば、芥川龍之介の賞であり新人作家の登竜門だ……。というのは半ば嘘。
芥川龍之介みたいなものを書いても賞を取れない。
あの賞の正体は横光利一賞だ。
横光利一? はてな?
ってなった人、あなたは正しい。そう、文学マニアしか知らぬ名前だ。とりあえず高校の現代文では習うが、いまいち影は薄いだろう。代表作は「機械」「春は馬車に乗って」などがある。川端康成と新感覚派をつくり、純粋小説論などを書いた……。
……知らねーなぁ、という人の方が普通だ。
文学性でいうと、実存主義的といえば、まぁ、わかりやすい。
私小説とプロレタリア小説をこっぴどく攻撃した人でもある。
つまり、芥川賞は横光利一賞なんである。この意見は割と文学マニアから聞く話である。
簡単に言えば、プロレタリア小説と私小説は芥川賞を取れない。それだけではない、哲学手法的には「実存主義」であることも大事である。
ここら辺を押さえておくと芥川賞受賞作を読むときの参考になる。
逆のことを言えば、村上春樹はこれに反しているから取れないのだ。(本人がとりたいと思っているかどうかは別だが)
しかし、横光利一、戦前でも戦後でも激しく社会的立ち位置が変わらないので、なんだ、政治的に立ち回るのがうまいと言える。(まぁ、私小説とプロレタリア小説を攻撃したからね)
この男のせいで、日本小説はガラパゴス状態である。
世界の小説の主流は村上春樹のほうだ。日本でも人気作家だけど。世界の主流だから、世界で読まれているんだよ。
今の世界の小説って、不可思議な書き方をされたものを、暗号を読み解くようにして、ストーリーを読みつつ、背後にあるものを探る、そういうふうに読むものなんだよ。
そして、日本人もそういう風なものを書いてこなかったわけじゃない。
問題は、いまだに皆様が芥川賞を、芥川龍之介のネームバリューですごいもんだと思い込んでいるせいで、芥川賞をとるような作品=文学、だと思い込んでいることだ。そう、妙な賞をつくっちまったもんだから、日本では純文学なんていう気色悪い言葉が生まれ、それが小説に限定され、その小説の中身が横光利一的であることに限定されてしまっている。
で、これまた悪いことに、このおっさん、作風が多様なんだよ。決まった作風がなく、その時代その時代で海外ではやったものを貪欲に取り入れ、コロコロ文体も書く内容も変わるの。器用なのさ。
これは言い方を変えると、谷崎潤一郎みたいに「こういうもの」っていうのがないの。いい意味でも悪い意味でも。
「蠅」のような散文的なものも書けば、「春は馬車に乗って」みたいな感傷的なものもかくし、「機械」なんて町工場の人間関係を実験的な文章構造で書くこともしている。
同じ、新感覚派でも川端康成とは違うのがここ。
(後年の作家になるが、 三島由紀夫みたいに 時々こういうものも書く、ってんじゃなくて、本当に作風が一定しない)
日本小説における範馬勇次郎みたいな存在なのにも関わらず、横光利一、まぁ、魅力がない。横光を教えたいから高校教師になるなんて人も珍しいだろう。
そして厄介なのは、やはり小説っていうものが、他の分野に影響を与えているのは確かなのだ。例えば漫画アニメや映画、戯曲の表現手法もそうだ。
日本の漫画も、やはり、海外の漫画と比べると、実存主義的というか、観念的な表現が少ないというか。
ファンタジー小説でさえ、なろう系みたいに、なんだこう、世界の構造や物体の本質、イデア的なものの説明がおざなりで、主人公がいて、その主人公がこうだから、あれこれ、みたいな……。なんだ、こう、言っていることを自分でもよく理解しないな、こりゃ。
でもわかるでしょ? なろう系ってものすんごく質の悪い実存主義小説なんですよ。主人公のために世界がある(正確に言えば、主人公の意識が復活するとその世界があり、主人公は世界に先立つ存在である)、主人公は転生した先の世界では本質的には自由な存在だ、だが知らない世界では他人と共にいなければ生きていけない(それをサルトルは地獄と表現した。ここまでは良い)、そこに都合の良い他者である美少女が現れる(こっからおかしくなる)、主人公は「自由」という牢獄を打ち破るために、その世界の魔王なりなんなりを倒すために「社会参加」することになる。
これ、格闘漫画も同じなんですよ。
自由を強さに置き換えれば同じ。
世界で一番強い男に俺はなれる(言い方を変えれば、本質的に俺は自由である)。世界で一番強くなるためには他の格闘者を倒さねばならない。(他者が自分を不自由にしている)。
で、この問題な、あの、児童書っぽいつらしてるとんでもないクオリティの平安時代を舞台にした小説 『なんて素敵にジャパネスク』、あの作者は構造主義的にものを書いているわけですよ。文学を芥川賞受賞作家の書くものと規定することの残念な感じってこれですよ。『なんて素敵にジャパネスク』がなければない作品っていっぱいあるんですよっ!!! 少女向けだからってなめんなって話ですよ!!
キャピキャピ女子高生ちっくな平安貴族のお嬢さんが主人公でも違和感がないのが、作者が平安時代の社会構造を理解していかいているからでもある。主人公は現代女子高生みたいな性格で描かれるが、そこにある舞台設定は違うので、主人公にありとあらゆる試練が待ち受ける。
何はともあれ 小説の多くが実存主義的に描かれており、それが他の分野にも影響している、ということだ。
七十年代じゃあるまいに実存主義だけが主流哲学ではない。構造主義っちゅーもんがあるんじゃって話ですよ。
で、なんでこんなこと書いているのかって、横光利一に一番似ている現代作家の話をしたいからですよ!!