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猫柳草庵

猫柳の隠れ里にある、庵です。 よろずのことを語るブログです。 政治やら思想やら宗教の話もするから苦手な人はスルーしてね。

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私も予言してみる

インテリ対庶民の様相を呈してきた学術会議関連だが、これも目眩しだと思う。(ただ、インテリと庶民の間の溝はもう埋められないと思う)
 
 問題の本質は、学術会議は内閣ではなく、”内閣府”の問題であり、もっと言えば、学術会議そのものが「内閣府の侍女」だ。学術会議は十年ぐらいまともに提言したことがない。つまり、内閣府の官僚が書いた作文を称賛して学術的な箔をつけるのが仕事だということだ。
 これは、新政権(とあとちょっと地方公務員)と高級官僚の戦いであって、構図で言えば、幕末の 下士VS上士の戦いに近い。これは菅総理が「学術会議の名簿から六人の名前が抜かれていた」と言っているが、それがもし本当ならば、であるが。
 そして、これが内閣府官僚と総理の二者問題であると考えるのは、内閣府の直轄の特別機関である「学術会議」のことに、他の省庁の大臣は関わるはずもないからだ。
 どちらにしても、このような前例のないことが起きている時点で、現政権の内部で何かが起きていることは明白である。

 新政権にさっそく泥を塗ってやろうという官僚の意図を感じる。

 おそらく、これからも官僚側のボイコットが続くだろう。
 だが、政権より官僚側のスキャンダルの方が大きいために官僚側が滅ぶだろう。その後は行政改革である。おそらく地方分権化が進む。

 


 事実上、学術会議は働いてないし、何かすごい権限を持つ組織でもないので、内部にいる学者が右だろうが左だろうが関係ない。ならば、何も波風立てない方がいいはずだ。
 官僚の思考回路的は、「波風立てず 責任取らず」をとるはずなので、何かの意図がなければこんな問題にはならない。なので、もし、総理以外の誰かが名簿から人の名前を抜いていた場合、だいぶ思い切ったことをしている。後始末をどうするつもりだったんだろうか。単純なミスだったといいきるつもりだろうか。
 
 おそらく、これからも、官僚VS政権が続く。

 同時にこれは、そうは言っても選挙で選ばれる代議士で構成される政権と、受験エリートの集団、どっちが政治の主導権を握るか、という問題でもある。
 

 安倍政権長期化の理由は、内閣府人事局制度の問題だ。
 これは安倍元総理肝煎りの政策だった。これは官僚全般の人事に関わるものだった。それによりものすごい強い権力を手に入れたのが安倍政権だった。
 総理夫人の周りには女性内閣官僚が常に張り付くような異常事態さえ起きた。内閣府官僚である彼女らが張り付いていても「森友問題」は起きた、いや、だからこそ、法的に追求できない、方の抜け穴を抜けに抜けた事態になった。いかに内閣府が腐っているかわかる。
 しかし、安倍政権が倒れた今、安倍以外の人間が内閣府人事局を握ることになった。


 無能総理とそれを操れる俺たち、という構図が崩れそうな今、一体、どうするのか、
 


 自粛期間のコロナ禍のなか、働いていたのはもっぱら警察であり、霞ヶ関は近年まれにみるレベルでひっそりとしていた。警察、っていうか、警視庁は地方公務員であり、それを頭を押さえつけて、無理やり中央的な組織とし非民主的な組織にしているのが警察庁である。他の県警とかも同じ構図である。

 この件とは直接は関係ないけど、日本は総理大臣が直接選挙で選ばれるわけではないので、警察のような組織は本来なら、「直接選挙で選ばれる県知事の直轄」と胸を張って言える組織にした方が、民主的である。と、いうか、戦後直後の警察組織は上に書いたようなものだった。むしろ、地方から中央へ人を送るべきだ。
 このような組織にして警察改革は知事に任せ、地方地方で特色ある警察組織にした方が民主的なはずである。
 もっと邪推すると、緊急事態宣言が出せなかったのも、安倍政権が官僚政権だったことに起因するだろう。成立までに批判されにした緊急事態宣言にかかる法は、実際には「中央から地方へ権力が移行」する法律である。つまり、中央官僚の管理するものが地方公務員へ移譲する事態なのだ。
 
 なので、緊急事態宣言以降、中央集権的なものが鳴りを潜めているのは当たり前なのだ。
 私たちはものすごいタイミングで「地方分権的」な世界を体験してしまったのだ。
 これを成立させたのは福田政権であり、福田政権はおそらく、アメリカと官僚に嫌われて倒れたのだと思う。

 
 無能総理とそれを操れる俺たち、これこそ理想の職場だーーー地方公務員は黙って従っていろーーー、っていうのを、私は勝手にシンゴジラシンドロームって呼んでる。
 そしていざ、ゴジラが目を覚ました時、活躍したのは俺たちの総理でも俺たちでもなく、地方公務員と地方知事であった。
 そして、俺たちができたことは「ヤシオリ作戦」ではなく「アベノマスク作戦」であった。
  



 ネトウヨ的な言論もリベサヨ的な言論も、あれだけ本が出版され、ネットを汚しているのにもかかわらず、あれは私たち「民衆」に向けられているものではない。
 言論だけではない、小説も映画もそうだ。今やアニメすらもだ。
 結局は政治に向けられ、官僚たちの内部争いに利用され、それ故に国から金をもらっている分野の人たちは敏感になり、という構図のものだ。
 

 めっちゃ雑に言えば、「反中嫌韓本」が売れるのは、アメリカにひっついている官僚やサラリーマン階級が溜飲を下げるためである。
 しかし、実際に滅亡しそうなのはアメリカである。





 で、Twitterで、参考書見てマインドマップ 書いて勉強した方が分厚い理論書読むより、公務員一種は簡単、みたいなことを書いている冷笑ネトウヨアカウントがあったんだけど、そういうところだぞ、そういう、って思っている。


 嫌なシナリオは、これで大学教授が主導する学生運動に発展する事である。まぁ、今、大学って別の意味で「大学開きたくねー」って思っていると思う。なにせ、今の大学は親に対して「お子さんちゃんと預かってますよー」って言わなきゃならんようなサービス業組織だからだ。そして、今の学生は「奨学金払わないとならん」つまり、借金を持つ階層でもある。そして、食えないポスドク、権威のある教授、サービス業化した経営陣。これらがグズグズになったとき、大学そのものが暴力の坩堝になりかねない。
 
 しかし、そもそも、この国の受験に対して言われていることは、英語の難易度が大学の格を決め、他の教科の難易度は変わらない、という。だから、上流の家は、小さい頃から英語をやらせて留学させるわけ。
 つまり、インテリって英語ができるだけって場合が多いから、地頭がいいとは限らないわけだ。
 官僚さんたちは、俺たちは高学歴! 東大卒! みたいなところで、妙な自信をつけているようだけど、実際、喧嘩をしてみたら、どっちか勝つかわからない。
 と、いうか、もし本当に「名簿の事が官僚の自作」だった場合、喧嘩の売り方を知らなすぎて怖いよね。
 

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結局消す

つまんねー小説のレビュー書いたってつまんねーよ。(まぁ、もったいないから記事1個にまとめたい)
 やっぱ火星が近いから頭がおかしくなっていたんだな。

 でも、書いてみたら、今の文学だのアカデミーだのなんだのの本質的問題は理解したし。
 結局、「質の悪いホモソーシャル」で回ってるんだよな。
 あなた方にとって心地いいソーシャルかもしれませんが、こっちはドン引きですよっていう。


 関係あまりないけど、Twitterとかで、ネトウヨもリベサヨも人間関係やリーダー格を遡っていくと、上級官僚だったり大学教授みたいな人がリーダー格だった、みたいなことばっかりな世の中と同じことだよ。ついでに、ネトウヨのリーダー格ってみんなインテリ冷笑系だったていうかさ。
 社会科系の大学の先生ってなんか嫌な人間関係の人が多いんだよな。側から見ていて。(講義受けているだけの生徒を妙な政治系の学会に入れようとしたり。二流三流大学の生徒なんてどうせ捨て駒じゃろう)

 社会の劣化、だとかそういう言い方もできるけど、実際はもっとこう、えげつない権力争いでそういう社会言論を構築してるんだろうな、と。
 簡単に言えば、官僚内部の学閥争い、みたいなさ。
 
 しかし、官僚内部の力関係のために世論形成をするのは全世界の世の常なのはわかるよ。だったら、もっと頭良さそうで迷惑じゃなくて質の良いことをしてほしい。

 想えば、「踊る大捜査線」が流行したあたりからこの国おかしいんだよ。(ついでに、所轄の警察官ならレインボーブリッジは簡単に閉鎖できるらしいよ)。刑事ドラマって、お涙頂戴かカーチェイスがド派手! とかの方がいいと思うんだよね……。あれって刑事っていうか「捕物帳」の現代版でしょ?
 あと、「シン ゴジラ」も、なんか、官僚様たちの脳内の理想の職場を思い描いている感じがして 非常に、薄気味悪かった。映画もそうだけど、褒めてるメンツも。
 あれも、結局、ワシら大衆が選挙で選んだ総理なんて何も言わない無能がよくって、官僚だけでゴジラを倒すぞってはなしでしょ? もっと薄気味悪いのは、スパコンを貸してくれるのがドイツなんだよね。まだアメリカ中国ならわかるよ 当時、スパコン世界1を競っていたのは米中だからさ。 ドイツのスパコンだったら日本のスパコンのがよっぽど頭いいじゃん。てか、なぜ世界中のコンピューターをつないで! みんなおらに力を分けてくれー! じゃないんだ。でも、法学部の教授ってドイツ帰りが多いんだよねっ。

 シン ゴジラみてて、恋愛描写、古代文明、なぜか怪獣の正体を知っている研究者、おなじみの「パパの嘘つき!」みたいな展開、全部怪獣ドラマに必要だったんだなぁ、って思った。
 
 
 

 TwitterもFacebookもやったら、こんな人が見てるかどうかわからんブログよりいいんだろうけど、やりたくないんだよな。
 政治の話ばっかするのが一番フォロワー稼げるし、でも、それはやりたくない。
 それに、今となっては、ネトウヨもリベサヨも嫌いだから袋叩きにあう未来しか思いつかない。

 あくまで、文芸が主で、政治が従なんだよ、私の中では。
 文を説明するのに、必要だから政治の話もしなきゃならん、みたいな話。だもんで、古代中国やら明治やら江戸やらの話しかしたくない。
 


 
 でも、どんな国でも内部から崩壊するのであって、外部にやられた国って、よほどの小国でないかぎりないんだよなぁ……。
 

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書評 武曲 4 実存VS観念 剣道の歴史と朱子学

これまでの書評

書評 序文

書評 1

書評 2
書評 3


 やっと朱子学の話ができるぜ……。

 別に、剣道連盟が好きっつーこともないし、武道と日本、しいていえば、これらの政治的問題だとか、そういうのがあるのもわかっているし、いや、分かっているからこそ書くんだけどね。
 色々あったからこそ、勉強するのが楽しいじゃないですか。
 これ、意外と現代に続く問題だったりしますからな。
 あと、ヤフオクで昔から欲しかった明治書院の大判の近思録をせってます。



 「剣豪小説」と「剣道小説」は似て非なるものであり、むしろ、その性質としては百八十度違うものだと言っていい。
 前者は実存主義であり、後者は観念主義だ。
 剣道が問題にしているものは「剣の理法」であり、これは観念的なものだ。
 剣豪小説は、性質的に漫画でいう「格闘漫画」に性質が近い。後述したように、格闘漫画はなぜ格闘漫画たりえるのか。それは本質的に実存主義だからである。
 寺山修司が書いた「
あゝ、荒野」はボクシング小説であり、それ故に、小説として成立している。
 文学的に最も美しい勝利とは「ノックダウン」の状態だ。これは実存主義こそが七十代大の文学の主流だったからだ。
 例えば、木刀で相手をぶん殴って相手が死にかけて意識を失えば、それは確実に「勝利」である。この構造は言ってしまえば、ものすごく実存主義的な勝利である。相手は自由の根本である意識を失うのである。意識がなければ相手の世界は消えたも同然である。
 同時に、これは格闘漫画において、「判定負け」があまり存在しないのと同じようなことだ。
 剣道の試合においてそのような地平は存在しない。いや、あったらまずい。それだけではない。それが勝ちか負けかを決めるのは審判であり、審判が、どちらがより「剣士」として成立していたかを競っている。これは先立って理想的な「剣士」の本質があり、実態はあとに伴っている。
 実存主義小説作家が安易に剣道を内部に取り入れれば、剣道の観念主義的な部分と、小説そのものが水と油のように弾き合うのは目に見えている。
 そして、現代剣道の発展形成と、日本の政治、思想、は並々ならぬ関係があり、それを「ファシズムっぽい」の一言で片付かないのは明白であり、問題はもっと複雑である。
 




 そもそも、現代剣道の成立の過程は複雑であり、江戸時代に存在した主流の剣術流派について考えなければならない。
 中でも大きな流派といえば、北辰一刀流である。
 そもそも、北辰一刀流が朱子学を基本に置いた剣術流派であり、現代的な剣道に大きな影響を与えている。
 北辰一刀流は江戸時代において一種の革新的道場であった。
 禅と結びついた日本武術の道場は、いってしまえば、神秘主義的であり秘密結社化し、メンバーや内部ルールがわかりづらく、とても閉鎖的なものだった。
 それにたいして、北辰一刀流は、朱子学を基本に起き、広い階層を受け入れ、合理を重じた修行方法で、他の道場なら十年かかると言われたところを五年で済む形式にした。
 そして、かつての武術道場とは、段が上がるごとに、先輩やら師匠やらに金品を送るのが定例だったが、北辰一刀流は目録制度を行なった。それにより貧しい家の出身者でも、実力さえあれば昇段できる環境であった。

 現代剣道の成立に至るまでには、江戸時代に多く存在した流派が近代化に伴って国家に回収されていく動きが幾度もあった。
 明治初期には剣術家は廃業を強いられ、興業つまり、見せ物にさえなっていた。西南戦争時に警視庁の抜刀隊が活躍したことにより、剣術が見直される。その後、平安遷都千百年を記念し、大日本武徳会の成立する。
 実のところ、剣道という言葉が一般化するのが、その後の明治四十四年、剣道が中等学校正科で教科として正式に決定した後のことである。
 そして、武道も同時期に使われるようになる。
 そう、武道という概念は比較的最近定着した用語であり、明治以前、主に江戸時代では武術、剣術、撃剣などと呼ばれていた。
 その後、敗戦に伴い、大日本武徳会は解体され、サンフラシスコ講和条約が締結されると、全日本剣道連盟が成立する。
 民主的なスポーツであるとされているが、やはり今でも、剣道は武道なのかスポーツなのかという問題に決着はついていない。
 
 そもそも、日本人と剣という概念の関わりは長い。
 歴史が長いからこそそれを俯瞰するとなれば、あれこれ複雑な問題が潜むのである。

 ちなみに、ここら辺の歴史は、私がかつて藩校について調べていた副産物的なものなので、専門的におこなったわけではない。っていうか、大学に行ってもあまり本がない。そもそもあまり本がないのかもしれない
 
 話を戻すと、そもそも、江戸時代における武士階級の学問の第一は儒学である。その中でも、昌平坂学問所で教えられていた朱子学が主流であり、江戸時代には日本独自の朱子学が発展する。(一部の藩校では陽明学だったり国学だったり、藩校のレベルになるとちょっと多様性がある)

 しかし、学問の主流は林羅山とその門下であり、徳川幕府のイデオロギーとはこの林羅山から始まる日本朱子学であったと言える。

 同時に、林羅山は神道と儒教を同根のものとしてとらえていた。

 江戸時代とは日本における思想の時代であった。

 江戸時代とは誰が作った時代かといわれれば、私は林羅山が作った時代だと答える。



 話が脱線した。
 しかし、ろくに売れてもいない小説の批評より、林羅山や山崎闇斎や荻生徂徠や伊藤仁斎の話をしてる方が楽しく有意義に決まっている。


 疲れたから明日にしよ。
 
 
 
 
 
 

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書評 武曲 3 剣豪小説だったの? これ

これまでの書評

書評 序文

書評 1

書評 2



 誰に対しても需要なんてないと思うんですよ、この小説の書評って。
 そもそもベストセラーとかじゃないし。映画もぽしゃったし。
 でもね、読んであまりにひどいと感じたので、読んでから一年ぐらい経ってるのに、まだ怒りが収まらないわけですよ。
 こんなことやってないでね、届いた漢詩大系の詩経上下を読めって話なんですよ。
 でね、
詩経読んだら、春秋読まないといけないんですよ。
 衛の国やばいよ。人間関係がどうかしてるよ。
 そうだ、武曲だ。
 でもね、この書評書き終わらないと先に進めない気がするんですよ。
 驚いたことにまだ四合目ぐらいなんですよ。


 

 この小説はね、大人側に常識がないせいで「青春小説」じゃなくなってるんですよ。
 そして「剣道小説」としても失敗してるんですよ。
 かといって「HIPHOP小説」にもなってない。
 「父帰る」みたいな親子の葛藤を描くのにも失敗している。

 で、これね、改めて調べると、一番始末の悪いことに「剣豪小説」って言い張ってんですよ、売る側は。
 

 
「剣豪小説」って言いながら、舞台が現代ってなに?


 
 「宮本武蔵」にしても「大菩薩峠」にしても、舞台は現代じゃないでしょ。
 そりゃそうですよ、成立しないもん、そもそも。戦国時代でも幕末でもないし。

 よしんばやるんだったら「餓狼伝」ぐらい、ありそうでありえない舞台設定を作ってくれよ。なんかこうさー、よく夢枕獏がやりそうな、将軍家を守るための剣術VS天皇家を守るための剣術! みたいなやつとかさ。
 日本の中でもすごい権力者がついてて、治外法権だから殺し合いOKみたいな。
 もう、あれだよ、武道館の地下に地下闘技場あることにしてくれよ。
 宮本武蔵のDNAから体を作って、イタコのババアのキッスで目覚めさせろよ。
 
 だいたいね、現代で剣豪をやろうと思ったら「殺し合い前提の闇試合」するしかないじゃん。
 むしろ、なんで、強いやつに会いに行く形式の、闇試合をけしかけては相手の頭をかち割る、みたいな小説にしないんだよ。
 
「剣豪小説」ってなんだよ。

 剣道の普通の試合すらしてないのに
「剣豪小説」ってなんだよ。
 
 結局あれだよ、狭いホモソーシャルコミュニティで、あーでもないこーでもない和尚さんありがとー、ってやってるだけなんだよ。

 

 「大菩薩峠」なんて、あれだよ、主人公マジのサイコだからね? むしろ、そこが面白いんだよ。相手をその気にさせるためにあの手この手だよ。新撰組まで出てくるよ。冒険活劇でもある。
 作者の中里介山なんてwikiまでおもしろいよ。
 これを読むと、「大衆娯楽向け小説」の成立に、いかに自由民権運動や社会主義運動が関わってるかわかるよ。
 つまり、「剣豪小説」ってもっと深いものなんだよ。

 「剣豪小説」は娯楽小説なんだよ……。だったらちゃんとエンターテイメントをしろよ。
 だったらちゃんと「大衆向け娯楽小説」を書けよ。
 なんか、妙なところで芥川受賞作家面してるせいで
「剣豪小説」に対してすごく失礼な態度になってんだよ。
 
「剣豪小説」に権威なんていらないんだよ。

 「大衆向け娯楽小説」をちゃんとやれないってことは、やっぱり芥川賞作家って大衆を見下してるんだよ。大衆が喜ぶような漫画的展開をダサイとか頭悪いとか文学的じゃ無いとか思ってるんだよ。
 でも、
「大衆向け娯楽」に文化的に負けてるんだよ。品質も負けてるの。

 ワンピースの方がよっぽど、そこらへんの文学ぶってる小説より、ストーリー構成にテクニックがあるんだよ。ワンピースっていう「世界の果てに 海賊王のお宝がある 自由を目指すなら それを狙いに行くんだ!」っていうテーマと謎と目的を同時に提示できるアイテムを作ったのはすごいんだよ。そして、よくある長期連載と違って、120巻で終わるって作者は言い張ってるんだよ。60巻が折り返しだと思うと、あそこでエースが死んだのはすごい構成なんだよ。
 「シグルイ」だって南条範男の原作をすごく読み込んで形にしてるんだよ。そこにただ残酷なだけじゃなくて、封建社会のほうが人を切るより残酷だっていうメッセージがあるんだよ。
 
「大衆向け娯楽小説」である「餓狼伝」のほうが、よほど面白いし、ギリギリの戦いをしてるんだよ。

 

 むしろね、本当に現代を舞台にして、「剣豪小説」をやるんだったら、すんっごく面白いですよ。ナンセンスだし、徹底的に法律や国家というものに喧嘩を売ることになるしさぁ。

 もうあれだよ、かたっぱしから現代の強い剣士の頭をかち割りゃあいいじゃないか。相手をその気にさせるために、悪行の限りを尽くせばいいじゃないの。

 そこまですると、映画「太陽を盗んだ男」みたいなナンセンスさが出てくるじゃない。最後はどっかの山小屋で立てこもって、自爆! みたいなさ。
 
 

 なんかね、「何小説」として読んでもすっきりしないの。
 こんなすっきりしない小説は無いと思うよ。

 これ、下手な上に負けた小説なんだと思うんだよな。 
 「剣道」で書こうとして、失敗して、「剣豪」っていうことで誤魔化すみたいな。
 つまり「剣道」っていう概念に負けたんだよ。この小説はさ。
 
 

 
 

 
 
 
 

 
 
 

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書評 武曲 2 内容的問題

これまでの書評
書評 序
書評 1




 何がひどいって、常識がないのがひどいって話なんです。
 まぁ、私がピーナッツキングの支配する千葉の常識で生きているからですかね?
 鎌倉ではそうなんですかね?

 しかしですね、この常識のなさ、言い方を変えれば、世間の無さ、世界の無さ、他者の無さ、この外部性の無さが、ひどいレベルなんですよ。
 
 例えばですよ? 属託の部活コーチがですね、何があったかわからないけど、高校生と決闘して、高校生を半殺しにした……。
 これ、警察沙汰にならないのおかしくないですか?
 この小説、一切、ならないんですよ。
 そもそも、事件性のある重症人が運ばれ来たら、病院って通報する義務とかあるはずでは?
 普通に考えた、校長の首が飛ぶレベルの不祥事ですよ?
 
 1万歩譲って、ここで警察沙汰になってね、アル中が逮捕されてね、高校生側が「警察は俺のいうことを何も聞いてくれない」「俺は合意の上でやったことで後悔なんてないに」とかねいうならね、あとの昇段試験のシーンの「ファシズムっぽい」って意味がわかるんだけどね? んー。やっぱりわからん。
 結局、なーんにもならないの。
 そのまま退院して学校行くのよ、こいつ。
 法律とか、ないの? って思うわけ。

 坊主は坊主でアル中甘やかして、頭丸めさせてさー、それ、犯人隠匿罪では?。
 てか、アル中、親父の頭もかち割ってるから、二人を殺しかけたとんでもない犯罪者では?
 
 なんていうのか、本当に、全体的に「法律」みたいなもんがないのよ。
 外部がないの。
 つまり、社会がない。
 こんだけ社会がないと、人間って悩んだりしないよねーってぐらい、社会がないの。

 これ、確信したけど、男には男の 食堂かたつむり、みたいな都合の良い妄想世界があるよね? 
 


 言っておくとね、親子の葛藤ってなんで起きるのかっていったら、親子っていうのが、人間が最も最初に獲得する社会だからですよ。そして、親の社会が、子供の社会を決めてしまうからですよ。
 多くの場合、貧困問題や文化格差もここに起因しますよね。
 そして、親からは体ももらうわけですよ。
 だから、もしかすると 自分の親は本当は違うのではないか、とか、自分は妾の子供だ、とか、親を乗り越えることができない、虐待されて育った、みたいなことが、人間存在の基本を揺るがしかねない悩みになるわけですよ。
 なにせ、強制的に与えられる、人類最初にして最大の社会が家族だもの。

 社会なんかねーや、外部なんてねーや、みたいな世界ではね、そもそも比較対象がないんだから、悩みようがないじゃん。
 だって、毒親に育てられた人って、「社会に出てから本格的に親がやばいって気がついた」とか「結婚してから気がついた」って人が多いでしょ?

 これが天秤みたいな話でね、主人公二人がいて、片方が親との葛藤を抱えていた場合ね、もう片方は「ものすごく愛されている子供」や「他文化の出身」「似たような悩みを持つ」とかでないと、比較しようがない。

 これ、孟子のさ、萬章章句上の1に出てくるような、人類最大の問題なんだよ?
 「舜往于田、號泣于旻天、何爲其號泣也」ってことだよ?
 でもさ、この話だって、自分が王のような立場になり、人に礼を教え、率いる立場であるからこそ、親に愛されない自分の心が余計に傷つくんだって話だよ。
 自分がいい政治をすればするほど、人と人とは慈しみあうんだから。
 それも、のお父さんってさ、目が見えないからこそ再婚したんだよ。その母親ががとんでもない毒親なんだよ。でもお父さんだって、それは、もう、息子のことを考えたから再婚したと思うんだよ。だけど、その母親にしてみても、自分が産んだ子のほうがかわいいじゃん。こんなのどうしようもないじゃん。
 自分は民に結婚の礼を説かねならない立場なのに、親子関係が破綻してるから、自分はそれができないんだから。それができないからこそ、妻に対する思いは複雑だよ。
 社会があればあるほど、こういうのって複雑になっていくんだよ。
 


 この小説で一番いらないのはね、映画だと柄本明が演じる坊主なんですよ。
 こいつが二人を掌で転がして、社会に出さないから、テーマがぼやけるんですよ。
 外部性を否定して、出てくる女はみんな都合が良くて、そのくせ無頼を気取っているっていうね。で、なんかあると仏教用語だして誤魔化す、と。
 坊主が巧みに人を操って、社会との衝突をふせいで、二人を傷つかないようにしてるんですよ。
 そんな状態で手に入れる救いなんてね、偽物ですよ。

 簡単にいうと、これ、ホモソーシャル小説なんですよ。

 そして、そのホモソーシャルっていうのが、未成長の男らしさからくる甘えを全部吸収してくれる狭い狭い交友関係なんですよ。
 逆説的に、すんごく女々しいの。
 登場人物がっみんなっ。

 この小説が一番嫌いなところはね、登場人物がみんな「女々しいのっ」。
 なんか、悩んでるフリしてるだけなの。
 

 例えば、アル中、自分の母親が母親じゃないって知って泣いて父親に感謝するだけからね? 私ならおとん殴りに行くと思うし、一生許さないし、むしろ殺した方がよかったって思うよ。 っていうか、自分の子供じゃない子を育てた戸籍上の母親が一番の被害者じゃないのか? 逆に気が狂うわ。
 結局なんだ、お前、母親でさえ、ホモソーシャルのための生贄なのかよ……と。

 高校生のほうは、なんか、あれだー、昇段試験を蹴って、これはこれで試合だとか、まーそーゆー、社会を自ら蹴ってるもんな。
 


 またまた、書くけど、 60近いおっさん、大学の講師、芥川賞受賞、作家キャリア四十年近く、がこれだよ?  
 これね、日本小説における最大の問題点なんだよ。
 結局ね、多くの小説が、ホモソーシャル小説なんだよ。
 ステレオタイプの女! 昭和から変わらぬ喋り方の女! いまだに飲み屋にいる着物姿の女! 男の悩みをなんでも吸収するオムツみたいな女! 


 いやいや、そんな、いい大人がそんなこと書いて……。


 
 
 
 
  

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