小説がもたらすもの
何事からも何かを学ぶ、それが私 猫柳なんです。
だもんで、この小説を読んで、改めて小説の持つ暴力性に気がついたわけです。
それは、一人称単独視点の小説は容易に人を、誰かの観念世界に引きずり込むことができるという魔術が使えるってことです。簡単にいうと人格のトレースを無理くりさせることができるわけだ。
だもんで、私がしがないタクシードライバーにもドラゴン退治の勇者にもなれるのが小説。
それも、場面場面で主人公が感じていたこと、考えていたこともトレースさせることが可能な分、漫画やゲームやアニメにはできないことであると言える。
まさに、文字だけで構築されたメディアだからこそできる芸当なのだ。
三人称 もしくは複数視点の小説の場合、統一した人格に誰かを引き込むことはできない。その代わり、複数の視点による複数の考え方を客観的に提供できる。
何にしても、思考感情といったおもてに出しにくいことを、相手に伝えることができるというのは、小説の旨味である。
思考や感情を映画にしようとすると、熟練したカメラマンや照明、卓越した役者が必要となってくる。
小説なら、印刷機があれば大量に擦れる。
だもんで、近代化の政治的アイテムに小説が使われたのは、むしろ当然というか、むしろ小説が近代を生み出したと言っても過言ではない。
作者の視点に無理やり読者を引き込めるからね。
逆っていうか、裏みたいなことをいうと、小説が廃れたこと、小説が批評されなくなったことと、大きな物語の終焉の訪れは一致する現象だろう。
しかし、これが、ものすごく深い知見から得られた思想だとかならいいんだけど、例のごとく、ついていけない死生観、幼い思想、都合の良いファンタジー、そんなものを植え付けられるぐらいならむしろ読まない方が心にいいわけでね。
しかし、小説の読み方をマスターすると、おそらく騙されにくくなると思うよ。
問題は、学校の現代文をやってもそれをマスターできないところにあるんだけど。
大学の文学部行っても身につかない人には身につかないのが問題なんだけど。
なんだろ、アニメやゲームに若者が行く理由はわかるんだよな。
小説って、誰かの思考に数時間ぐらい染められるわけで、合わないものは本当に合わないし、苦痛なものは本当に苦痛なんで、読むのにトレーニングが必要なんだよな。
簡単にいうと、小説読むのは、作家とのスタンド対戦みたいなもんだからねぇ……。