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猫柳草庵

猫柳の隠れ里にある、庵です。 よろずのことを語るブログです。 政治やら思想やら宗教の話もするから苦手な人はスルーしてね。

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法律学は文学の子供 普遍主義と反普遍主義 

これはマジで言ってるんですが、文系の学問のトップは文学です。
 そも、日本初の憲法学者は文学博士です。

 物事の有用性でものの優劣がつけられている昨今、文学部と法学部では大体の学校で偏差値に雲泥の差があるんですが、それでも文学のが偉い。
 
 そも、憲法における大問題である『天』の設定において、日本の法学は失敗ばかりしとるし、そもそも、神と国家を分けたのが近代であるので、本質的に天が人に権利を授けているという構図は成り立たないのでは、という議論は成り立つ。
 この問題を法律学は解決できないだろうというのが私の見解である。
 文学(もっと言えば哲学)はこの問題を扱えるが、法律学では扱えない。

 法律学にとって天は外部的なものであるからだ。
 なんで、天の正体ってなんじゃ、となると憲法学者でさえ話を濁す。

 しかし、法律における絶対外部者 神(天)は、法律の永続的な権威、もといえば、正当性の設定においてかなり大きな影響……、と、いうか、神がいるから法律は永続的に正しいと保証されるので、神が設定されていない状態で法律を運営している現代社会は、法律の運営において大きな問題があると言える。簡単に言えば、誰が数百年後も何がしなにがしを死刑にした正当性を問えるのか、という問題。

 別にこの問題はローマ・カトリックの信者だから、とかって問題ではない。(カール・シュミットとかな)
 儒教においても大きな問題であり、鎌倉時代ぐらいから本邦でも法律理論として天の思想が重要視されてきた。

 こと、普遍的なものの設定は法律の”法源”の大いなる問題であるのだ。

 そんなもんないってのが人類学の遺産なんだから、法律にもうんなもんねーよと言われてしまえばそれまでである。しかし、反普遍主義を導入したらどうなるか、法律が正しいのは「警察が暴力を持っているから」というこれこれで問題のある結論になる。

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詩経について

何を読んでも、オカルト解釈やら古代中国の習俗解釈をする本ばっかりなんだけど、これって結局数十年前、戦後に流行った解釈なんだよねと。
 これがまぁ、馴染めない。
 詩経の民俗学解釈がなんとも苦しい気がする。
 民俗学的解釈の怪しいところは、文献に頼らないので、なんとでも言えてしまうところにあるわけだ。
 これは気をつけないといけないところで、あくまで民俗学は「観測者」の目線次第で物事が歪む可能性がある。
 
 民俗学解釈だと川に女が出てきたらすぐに婚姻の儀式だ川の女神だという話になる。しかし、毛詩や朱子の時代だって、結婚式の道すがらわざと濡れるルートを通り、川の女神に婚姻を願う、というのはやっていたはずである。その習俗がありながらそう解釈しないことには”それなりの合理的理由”があったのではないか。あと、川=女神=婚姻の時に濡れるのがよい、というのはアジアではままみられる習慣であり、現代でも行なっている地域はある。っていうか、中国だって今なおそれをしている地域ってあるじゃん。

 つか、現代人の私たちより、近代以前を生きていた人の方が「よほど習俗的習慣については詳しい」のではないのか? 
 その上で、そうではない解釈をするのなら、それなりの理由があるはずではないか。

 所詮、私たちは詩経が編まれて数千年後を生きているわけで、本来の意味を完璧に再構築できるわけがない。考古学がちょっと発展したぐらいで過去の学者の解釈を覆せると考えるのは傲慢すぎる気がする。
 少なくとも、近代化以前の人の方が、伝統的な習俗は真面目にやっていたわけでさ。

 あと、詠み人知れずの詩を読むとなると、その解釈って読み手にぶん投げられている状態なわけですよ。
 なんで、毛詩や朱子の解釈が間違いとは言い切れない。
 毛詩や朱子の解釈は”その時代の朝廷や貴族や士大夫の間では”そう読むことが正当とされていた、という意味では正しい。


 んー、民俗学と考古学と文学をバイアス的に混ぜた結果が、現代の文学部っていらなくない? みたいな感じにつながっている気がする。
 

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結局夏目漱石読んでりゃいいんだよ


 乱暴に言えば、日本文学は夏目漱石よんでりゃいいです。
 と、いうのは、夏目以降、夏目以前では日本語の構造が大きく違うからであーーーる。
 日本語は夏目以降、夏目以前で分ければいいのだ!
 で、夏目以降、夏目以前で何が違うのかと言えば、漢字の使用率である。
 そう、漢字漢語まみれの現代日本語は、夏目漱石が作り出した全く新しい日本語なのであーーーーる。
 これは、それ以前の、樋口一葉 坪内逍遥の小説を読めばよーくわかるのであーーる。読めないのでアーール。歌舞伎みたいな言葉遣いなのであーーる。

 つまり、現代日本語に漢文の素養が不可避。そういう構造にしたのが夏目漱石なのだ!
 一つの国の言語をここまで改造した作家は夏目ぐらいである。
 夏目以前の日本語において、漢字漢語というのは、武家ぐらいしか使い倒していないのだ。
 
 しかし、同時に、夏目漱石の政治性や思想的背景がめっちゃんこ複雑だというのも事実。
 実家の都合で東大で英語を学ばされたものの、本人は二松学舎で漢文をやりたかったらしいしね。
 『草枕』の背景には、前田案山子っちゅー自由民権運動家の存在があるわけだし。
 ここら辺の政治っちゅーのがめちゃ複雑なのである。

 そもそも、古典と現代文を分けるのがいけない。
 現代文は、歴史の結果生まれた、日本語の一形態にすぎないのだ。

 文字ー文法ー文章ー物語 というルートでしかものをかけないのだから、ものの基礎は文字であり、文法であり、文である。
 文字を使い一定のルールに基づいて書かれた文章の塊を、複合的に解釈することで生まれるのが物語である。
 本来の国語とは 書ー古典ー鎌倉から江戸時代の文芸ー現代文学、それらを一括りにしたものでは無いか。

 

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実用国語はいかが?

そもそも、走れメロス読めなくても死なないけど、契約書を読めないと死ねるのが現代社会なので、契約書も読めない大学生が大量にいるってなると国語教育に「実用国語を」つー気持ちはわかる。

 しかし、現行の国語教育者に実用国語をできる教員が本当の意味でどれだけいるのか。
 あれだ、契約書を読める国語の先生っているの? って問題。
 契約書は法律用語の塊なので、そりゃあれだ、大学とくっついている教育機関なら法学部の先生連れてきたほうが早い。まぁ、そもそも、契約書が読めないという問題は、契約書に書かれている言葉と実際社会の言語が乖離しているからである。しかし、それはどこの国でも一緒。ドイツ法でも英米法でも一緒である。例えば、アメリカの契約書は「合衆国のなんたらかんたら法に基づいて」とか書いてあるし、たいていの法律用語は馴染みのないものだ。
 簡単に実用国語が身につくのなら、誰でも法学部出れるわな。

 じゃあ、現行の「教養国語」に文句がないのかあるのかと言われれば、文句は大有りである。
 まず、大概の学校では、教養国語は文学の才能のないバカの解釈を生徒に押し付けるという結果にしかなっていない。
 なにせわたしの学校の国語の教師に「こんにちわ」が正しいと思っているようなバカがいた。「こんにちは」が正しい。「こんにちは、とてもいい天気ですね」とか続く挨拶の省略した形が「こんにちは」である。「は」は助詞である。「こんにちわ」って書いていいのは16歳ぐらいまでだ、こんなバカが教師やって国語を教えているのが実情である。
 美しい日本語とか、日本の伝統を守れ、とかではない。(個人的には、言葉は変化するものだと思っているし、これが例えば、何かを調べて国民の六割七割が「こんにちわ」を使っているから、もはや「こんにちは」ではない、とかならまだいいよ。)
 国語学的に当然そうなる論理的結論である。そう、理論的問題だ。
 つまり、お前国語の先生やってんのに最低限度の日本語の文法が頭にはいってねーじゃねーか、である。
 笑えない冗談ではない、実話である。

 たとえば夏目漱石の『こころ』だってそうだ。Kと先生の間には並々ならぬ、ひょっとすると同性愛的な関係があったのではないか、これは当然普通に読めばそう思うはずだが、それを国語の教師にいうと「そういう目線で読むのはよくない」と言われる。
 まぁ、もっと突っ込んだ話をするならば「K」は夏目漱石本人ではないか、とか、そこまでして分捕った奥さんなのに全然先生は大事にしてない、とかそういうツッコミが入るのは当然であるし、そう読むものである。
 そういう、主人公から見たら上の世代の人たちの微妙な生き方が、乃木夫婦の殉死と結びつき、社会と主人公たちとバイアスがかけられるというのが「こころ」という作品の肝である。はたして「明治」とはどういう時代であったのか、という作品であり、友情がテーマでもなんでもないし、冷静に考えれば、年増の奥さんと主人公が二人っきりになったりと、案外エロい作品である。
 なんで、「そういう目線で読むもの」なのだよ。
 はっきり言えば高校生が読むもんじゃない。

 文学を教えるためには、その作品を最低50回は読まないとならんので、教養国語を押している側も大抵の教師はその域に達していないのではないか。

 そもそも、「走れメロス」も箱根駅伝の話から入らないとわからん。しかし、箱根駅伝に出場する大学に行ける階層って……。
 むしろ、「舞姫」より「走れメロス」の方が害悪だとおもうんだよな。
 ヘッセの「車輪の下」も中学校受験の話だしな。(まぁ、今のドイツがどういう学校制度なんだか知らんが)
 舞姫に出てくる社会階層って戦後の日本には無い社会階層だから、今となっては無い議論を蒸し返しているだけだと思うんだよ。そもそも、あれって男のほうにも結婚とか恋愛の自由がないからな、と。
 
 教養国語は教養国語で、教養を作ってきた社会階層はどこだ、とか、日本の社会構造はどうなっているのか、という問題にぶち当たるぞ。(そもそも、国語の教科書って都立の名門校の先生とかの趣味がたぶんに入ってるじゃんか)
 例えば、ドストエフスキーと万葉集は旧制高校の生徒のバイブル的なものだったとかさ。

 
 しかし、同時に、戦後に入ると特に読ませる作品がないのも事実である。
 
 
 

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文学から逃げるな 詩三百!

みたいな感じの気持ちになっているのですが、横道にそれそれそれて文化人類学やら紋章学やらやっているのは、あれなんですよ、詩経楚辞の本を古本で数冊入手しているわけですが、全然読み進まないのですよ。
 あと、9月の中頃から、崩し字とか読む講義をうけるので、崩字読めるようになったりするかもです。あとblenderつーソフトがアップデートされました。
 まーた横道か。
 まぁ、医学が発達して人生二百年ぐらいになると勝手に信じてるから、まだ大丈夫。(嘘です)

 これ、原因をいうと、詩経楚辞って、結局、あれだ、孔子が学問という概念を打ち立てる前のものなわけでしょう? 宴会だとか冠婚葬祭で読まれ、貴族や庶民が歌い、時に政治を行い、時に生活の場にあった詩なわけですよ。
 これの一体何がこまるって、ほんとに、どこまでが政治的なのかどこまでが宗教的なのかどこまでが庶民的なのか、どこまでが個人的なことなのか、現代を生きる我々には何もわからんのよ。
 折口信夫的な解釈の万葉集のように、まぁ、なんだ、白川静のいう通りに、ほとんどに呪いやオカルト的な意味があるかもしれず、ないかもしれず。
 解釈の仕方をぽーんと現代人に渡しても、なんのこっちゃ、という。

 同時に、政治的に読んでいた儒学者たちの解釈が、現代の主流解釈のいうところの「間違い」なのかどうかと言われれば、これも微妙で、孔子の時代にはもう、政治の場で読まれ、外交の場で読まれていたものもあるわけ。ついでに、「古の時代から続く知を継承する=政治的な正統性の主張」をするためのものにはなっているので、儒学者たちの解釈はその意味では正しいわけです。これは、もっと詳しく春秋時代の外交について勉強せんとわからんのです。

 同時に、当然、詩である以上、個人の感情に寄り添っているものでもあるわけでしょう。

 結局、あれだ、どういう意味なの? という疑問が、文字一つ一つに宿る、そんな読み物であるわけです。
 簡単に読めるのに、読み込んでいくと難しい。
 それが詩経の厄介なところです。

 例えば、竹が出てきても、それがイメージするものが、現代人と古代人では同じなのか。現代人が竹にイメージする青々とした若々しいイメージはどこからくるのか。それが古代から読み継いできた結果、青々とした若々しいイメージが現代人にも引き継がれているのか。それとも、古代人は竹に、何か別の呪いやマジナイのような意味を込めていたのか。それとも、竹に対するイメージは”普遍的”なものなのか。

 しかし、これがもっと時代が下り、”詩人”や”詠人”が出てくると楽なんです。
 弟のいる詩人にとって弟は実在する弟であるし、余程変わった言葉使いをする詩人でなければ、過去の作例を遡ったり、もっと時代の古いものから原典をさがせばいいのです。

 しっかし、詩経は詩のオリジンです。未来があっても過去がない。
 
 つまり、オリジンってクソむずいぞ、ということでした。






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