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猫柳草庵

猫柳の隠れ里にある、庵です。 よろずのことを語るブログです。 政治やら思想やら宗教の話もするから苦手な人はスルーしてね。

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学問の順番

四書五経 実学 虚学 この順番が正しいのです。
 四書五経は古今東西の古典作品も入ると思う。
 で、実学、これは社会的に利用できる学問。
 最後は思想や形而上学、宗教、など。

 私がちょっと思っていることは、あまりに”実学”を無視して、虚学を弄っている人が多すぎる! ってことです。

 だから、自由と民主が両立しない! 俺は自由を選ぶ! とか言い出すわけです。
 大体の経営者の自由って、マネロンとタックスヘイブンの自由でしかなく、それはその国の行政がそれを許しているからできるだけです。(簡単にいうと、シンガポールや香港への資産移転によって脱税できるのはシンガポールや香港の利益にかなっているので、シンガポールや香港の行政がそれを制度として行なっているだけです。自由ではなく、あくまでその国や地域の裁量によるものです)
 つまり、実際が抜けているので何をやっても失敗するに決まっているのです。
 
 民主は民主で、国家が作り出した制度でしかない選挙をよりどころにしているから、勝手に大衆に幻滅して「愚民どもめ!」とか言い出すのです。
 はっきり言えば、選挙制度だってその国や地域の裁量によって行われているだけで、やりようによっては世襲議員ばっかりになります。
 どんな制度で議員を選ぶかも、それはその国の行政の問題でしかないです。
 そもそも、選挙制なんてアリバイ作ってるだけです。

 実がなければ、議論はなんにもならんのです。

 だので、虚学だけ弄ってる奴に付き合って、いざ運動を始めると、こんなんじゃなかったとなるわけだ。
 何をやるにも、目の前に立ちはだかるのは、
 行政
 という名前の魔物です。

 行政という名前の魔物を無視して、俺は勇者だと言われても困ります。

 ただ、行政っていうものがなかなか民主的とは言えるわけで、なぜなら、高卒でも大卒でも院卒でも、公務員試験を受けないと公務員にはなれないからです。一部の職員なら外国人でもなれるわけで、これ、一般企業より民主的ですよ。
 
 しかし、インテリエリートだらけの運動であった場合、その失敗は大抵あれなわけです。
 http://s-scrap.com/4000
 ここを見ればわかりますが、その運動の失敗による挫折感は、もろに庶民へ向けられます。
 しかし、庶民を無視して、なにが民主なのかと。
 庶民を味方につける努力なんてあんたら何もしてないじゃんか、と。
 
 インテリエリートってのは、実に国家や行政、社会に疎いか。
 実がないのでそうなる。
 



 で、ここら辺から、私が文学を学び直している理由ですが、
 まぁ、法学やったら、その世界の根底に薄気味悪いドロドロがあることに気がついたんですよ。

 それは言葉の世界であり、観念の世界であった。
 どんな人間も言葉に支配されている。
 しかし、それは難解な法律用語ではない。
 法律には外側があり、法律に意味があるのはその外側の問題だ。

 そうですよ、実学の実は、虚学の虚に支えられているのですよ。

 
 
 
 

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法思想の彼岸としての行政法理論

アナーキズムの人には悪いが、国家の役割は増大するし、国家の力はこれからもっと巨大になり、国家はより観念的な集合体になっていくだろうというのが私の見立てである。
 そして、その巨大な国家を支えるものが行政法であり、すでに行政法の世界は民法や刑法を圧迫している。
 それに、ベーシックインカムを望むなら国家主義には反対できないし、国家を滅ぼしたいならグローバリゼーションに期待をするしかないのではないか。TPPのISD条項なんてもろに国家主義の否定だぞ。
 直接民主主義を機能させたいのなら、びっくりするぐらい共同体を小さくしていくしかない。しかし、極小共同体の塊となった国って、それって防衛とか福祉とか教育とかどうするのさ。
 間接民主主義はやればやるほど国民同士の連帯が壊れていく。トランプの言動を見ればわかる。選挙やる前から郵便選挙は不正選挙だってつーてんのだから。
 
 しかし、現実は変えられないので、まぁ、民主主義も機能しなくなっていくし、ローマ法的な自由主義的世界も限界を迎えるだろう。コロナ禍を引き起こしたグローバリゼーションは廃れ、国家による専制は強まるだろう。

 専制が不幸なことかと言われれば、そうでもないんですよ。

 自由主義社会と民主制と民主的な法律の世界は闘争の世界であり、それは言語による闘争なんだから、実際には民主制の方が”頭よくねーと死ぬ”社会なんですよ。自由民主の政党が弱者バカアホしばきあげなのは思想的に正しいのさ。弁論大会に出れないようなバカとアホは死ねっちゅうのが自由で民主的な社会だからね。
 で、そういう社会は蛸壷みたいになっていくからね。
 ていうか、すでに民主主義国家の思想界って、皆様が転向に転向を繰り返して、蛸壷化して訳わからなくなってるじゃんか。
 そうでない民主的な社会っていうのは、寄り合い村社会のことをいうのだ。そういう村社会が嫌だからみんな都会にしがみついてるんだろ?
 つまり、そうは言っても今時ね、村では暮らせないし、アゴラでの言論による勝負の世界にもいられないんですよ。
 んでもって、専制の方がバカアホは生きていやすいと思うよ。
 キリスト教や儒教による専制社会が続いたんだって、そりゃ、ボンクラはその方が生きていやすいからだよ。
  
 つか、アメリカはおそらく専制国家に舵切らないと内戦に突入だろうなぁ、と思っている。それでもいいけどね。どうでも。

 まぁ、今は世界を頭よくねーと死ぬ社会大好き人種がしばいているんで、そりゃこうなるよね。
 
 私だってちょっとは嫌さ。専制って怖そうなイメージあるもん。
 しかし、現実が現状を許さないからね。

 だからこそ、儒教3.0みたいな時代が来ると思ってるんですけどね。で、おそらく、まだ儒教3.0は在野でうんうん唸っている状態だろうと思われる。
 
 と、いうのは、行政法の分野って広がっていく一方だよね。
 そもそも、本来私的財産のハズの建物だのなんだのって実際には行政のお許しなしには作れないわけです。
 それにしても、行政の世界って、人ではなく組織が責任取るわけでね、つまり、無人の権力が人間を支配している状況なわけです。
 行政法の理論と現代思想は絶対どっかで対立する。んでもって、行政法が勝つ。
 自由だの民主だの言ってみても、行政法の分厚い壁と対峙しないのならそれは嘘つきというものですよ。
 しかし、人に教育や福祉を与えているのは行政法なんですよ。
 
 アメリカのIT関係の人って、意外に思想に明るくて、ニック・ランドとかの思想を勉強しとるんですが、彼らは自由と民主のジレンマから、自由を選び取り、アイン・ランドばりのリバタリアンになった人ばっかりなんですよ。
 で、その彼らが今どうなっていますか? って話だよ。
 おもくそ、行政から首輪つけられてんじゃん! って話だよな。
 たまたま、ITっちゅー無法地帯があっただけで、それも法律にあっという間に絡めとられ、行政法のお世話になっとるわけだ。
 つまり、IT業界のリバタリアンって現実が見えてないガキの集団だったってだけだろって話だ。

 そもそも、それだって、民主に負けたわけではない。
 行政こそ権力の実態であるが、行政そのものを選挙して選んでいるわけではない。
 つまり、自由と民主ではない、自由民主と行政の話だったのだ。
 そして、権力の本丸は行政であり、その行政はおどろくほど高度になっている。
 
 で、だからこそ儒教の時代が来るのだよ。
 儒教3.0っすよ。
 考えなきゃあかんのは、体を持たない皇帝権力であり、日本では天皇機関説に行き着くわけだ。

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映画雑感 ミッドサマーとジョーカー

基本的に映画嫌いなんですよ、帯状疱疹やってんで、でっかい音に耐性がなくなってましてね。って言うか、元から大音量空間が嫌いなんで、子供向けアニメ映画とかも、映画館で見るとグラグラしてダメんですよね。
なんで、家とかで観てですね。
んー、映画嫌いっていうより、映画館が嫌いなんだな。音量調節できないから。



 ジョーカーは、あれは、まぁ、ハムレットだな。現代のハムレット。
 ハムレットと多感な年頃の青年の共感、なんつーのははるか昔からのおきまりの議題なんで、俺はジョーカーだ、これは俺のことを書いているんだー、なんつーやつはハムレットの昔からおるってだけの話だね。
 もしくは感情表現に障害を抱えた反省のしないラスコリーニコフか。



 
  でー、ミッドサマーなんすか、個人的にはソウシリーズを真顔で観れるぐらいグロ耐性が強いんで、大丈夫でした。はっきり言えば、寝る前の「死んだらどうなるんだろう……。宇宙の果てってどうなってるんだろう。永遠ってもんがあるとしたら、それはそれで怖いし、意識が全くのゼロになるのも怖いなぁ」と思う方がよっぽど怖い。子供の頃から、これをやっちゃって、時々戻ってこれないぐらい怖い気持ちになる。これ、わかる人いるかな。
 
 で、みんな、あれを、主人公たちが「異文化コミュニケーション」をしていると思い込んでるんですが、あれですよ? アングロサクソン系の人って、あのミッドサマーの文化が地続きにありますからね? って話で、これ、「アーリア学説」まで辿れる、怖い話ですよ? ってことがいいたい。てか、そっちのが怖い。

 異文化コミュニケーションというより、文化的なタイムスリップですね。主人公サイドからしたら。
 本当の怖さはここで、キリスト教や近代思想を受け入れて、文明的に生きている人々の文化の根底に、これをあっさりと否定する信仰形態がある、しかもそれが文明の基礎を作っている、というところです。

 これが心の底から不快だと思うなら、感覚が「北極星」側ということです。これでわからない人にとっては難解というより、グロいだけの映画なんで見る価値なしです。

 ようは、白夜の真昼間に夏至の祭りなんてしてるんだから、この人ら太陽系信仰なんだわ。
 
 で、これ、主人公が追い詰められてこうなっているっていうより、この文化に徐々に馴染んでいくわけです。つまり、目覚めていく過程ね。でも、これ洗脳とかじゃないよ。先祖返りなんだよ、これ。主人公にとってのあるべき世界がそこにあったんだね。彼女の中であるべき本来の「生命のサイクル」を発見してしまったんだよ。
 死ななきゃならん七十二歳の老婆が崖から落ちると鳥が飛び上がる、っていう神秘的な描写があるよね? 
 つまり、ソウいうことだよ。
 ゾロアスター教だと本来は鳥葬だからね。
 で、ゾロアスター教って鳥が重要な役割をはたしていて、人には霊鳥の守護霊がついていて、死ぬとそれが天に返っていくと言われている。それが仏教とともに日本に入ってきて、それが日本のお盆の原点と言われている。
 つまり、お婆さんは成功したから、鳥が羽ばたいてったんだね。
(ビョルンの方は失敗したんで、司祭にトドメをさされる)

 クマ殺すのも一緒で、要は、ミトラの神像が牛を屠殺しているのと同じことをしている。
 生命の解放であり、その生命を生贄に着せて輪廻させる儀式だね。
 最後は神聖な炎(太陽の暗喩)で燃やしておしまいおしまい、主人公は花の女神になって大団円。
 花っていうのもこれまた、四季の流れや、生命のサイクル、太陽をイメージさせるよね。


 だから、ミッドサマーの村の人は、白い服を着ているわけだな。根っこがゾロアスター教とかと同じところにあるからね。マスクしてたら完璧にあれだね。

 日本風でいうなら、今だに古代の祭りをする集落が日本にあって、トラウマを抱えた女主人公が「私は卑弥呼ー」っていうようなもんだ。
 
 で、どうもこれ、巨人ユミルの祭りっぽいんだよね。
 まぁ、北欧神話の世界だからね。
 ただ、実際の祭りがここまで残酷なのかどうかは知らぬ。
 で、巨人ユミルっていうのは、こちらでいうと閻魔大王ね。
 古代インドイランのヤマが源流。ゾロアスター教の経典「アヴェスター」に出てくるイマでもある。
 つまり、インドイランの共通神であり、キリスト教を受容する前のアーリア系の人々の宗教の内部の存在でもある。
 彼は人類で初めて死んだ神で、つまり、そこから生命のサイクルをはじまったわけだ。
 つまり、原始共産社会でもなく、ウホウホいってる原始時代でもなく、ミッドサマーの価値観こそ、ある種の民族の「文明の基礎」を作っているわけだよ。
 そして、その文明はインドとイランという二つの文明大国につながっていく。

 言ってしまえば、アーリア学説って、インドを支配していたイギリス人が最初に提唱したもので、インドとイランとヨーロッパ特に言えばアングロサクソン系の言語って似てね? っていう事から始まるの。で、実際記号学や考古学をやっていううちに、インドイランとヨーロッパの一部諸民族の文化が似ていることがわかっていく。
  そして、記号的学や考古学でいうと、原始時代のブルガリアやルーマニアなどで、卍模様が多く出土するわけ。
 つまり、アーリア人はものすごく広範囲にいるんだ! っていう発見があったわけ。
 見た目違うけど、仲間だ! っていうね。
 で、完璧に色めき立ったのは、シュリーマンがミケーネ文明の遺跡から卍模様の掘られた物を発見したこと。(個人的にこの発見は怪しいと思うんだよね。シュリーマンってロシア人の奥さんもらってからやたらと金回りよくなるし、商売人が突然トルコ行って遺跡掘るのも不思議。で、その出土品が今、ロシアのプーシキン博物館で観れるんだけどね。当然、ドイツとトルコと所有権を争っている)

 で、もっと言えば、旧約聖書はセムハム語族のヘブライ語が基礎となっている。
 キリスト教はどう考えても、ユダヤの宗教が基礎となっている。
 で、これに完璧にマウントを取れるのが、このユダヤ教に大きな影響を与えているのが、ゾロアスター教だってことだ。
 つまり、ユダヤ民族に上位に立てる証拠がアーリア学説なわけ。
 同時にこれが、当時の 植民地支配や近代化に伴う宗教運動やスピリチュアリズムに取り込まれていくわけ。
 雑にいうとさ、だって、卍模様拝んでいる地域は同族ってことでいいんだから、こんなに植民地支配にとって都合のいいことはない。
 ただ、これが現代では、似非科学と言われている。っていうか、確かにインドヨーロッパ語族なんだろうけど、諸言語の派に広がりがありすぎて、いくらなんでもみんな英語やドイツ語の仲間っていうのは無理があるよね。

(ですが、アーリア学説的な世界観、こーれがまた、トールキンに注がれ、今のファンタジー世界が構築されているわけだ。トールキンと民族主義って根深い問題がある。
 で、ニーチェもまた、ザラストラかく語りきっていう本を出す。
 キリスト教の熱心な親が、魔法使いが出てくるような本を読むな! っていうのにも深〜い訳があるのだ)


 なもんで、ただのグロ映画ではないのですよ。

 で、怖いのは、この映画の感想とかで「この世界観は合理的かもしれない」とか怖いこというやつが出てくることな。
 っていうか、これこそこの映画を撮ったやつの狙いだったら本当にやだよね。
 同時に映画っていうのはすんごく金がかかる訳でさ、この映画のパトロンの狙いってなんだろうねって話。

 と、いうのも、この映画、基本的に映像が綺麗なんだよね。青空の下の大草原で白い民族衣装を着た集団がいてね、グロいシーンも鮮やかな色合いで撮られていて、どこか不思議な印象を与えているよね。そして、所々に神秘的な演出も入る。
 つまり、ウィッカーマンと違って、村人を嫌悪する対象と描いていない気がするんだよね……。
 つまり、映画監督の目線が、どちらかといえば村人側にあるっていう怖さがある。
 
 頭の良い人ならわかると思うけど、私がずっと喋ってきたことって、第二次世界大戦の時にドイツ人の一部がはまっていたあの思想の源流がここって話ですからね?

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孔子ほど偉大で 孔子ほど暴力的な人物もおらん 



近況報告
 今、セカンドハウス的に家族が使っているワンルームマンションの引越しをしてましてね、それがひと段落つきそうだからブログ更新っす。
 で、案の定、契約の解除とか、契約の締結とか、法律的な雑務に追われているわけでね。 ええ、一言で言うと忙しかったです、はい。
 と、いうのも、大都会のオンボロマンションの三点ユニットバスのトイレ部分がとうとうダメになりまして、もう二度とユニットバスは借りないと心に誓ったんですが、まぁ、部品がないので修理とかできないぐらい古いのですわ、で、ユニットバスの取り替えって三日四日取り替えに時間かがかかると、まあ、結局あれでしょ? 引っ越さなきゃならんって話でしょ? どっちにしろ。
 あと、借りた時は、ユバーバみたいな貿易商のおばあさんが隣にいたんだけど、それがオーナーとの契約更新が如何の斯うのと年齢的な問題で退去、新しく来た隣人がまぁ、タバコを吸うこと吸うこと。それもあってですね、住環境が悪くなってたんですよ。(……タバコだと思うんだ、きっとタバコだ)
 つーことで、一週間で全てを決めてね、もう、忙しい、忙しい。
 畳六畳ぐらいの部屋でも、結構荷物があるもんでな。
 しっかし、引越しのその日にトイレの水が止まらなくなったのはビビった。
 で、コロナのせいなのかなんなのか、都会の不動産価格が値崩れしているような気がするんですよねー。昔は、単身者用マンションって名前通り単身しか無理で、セカンドハウスが欲しいなんつー要求ははねられたんですが、今結構ゆるくなってるんですな。





本題
 ようは、学問を始めようぜっと宣言したやつがいるから、中国語は偉いわけです。
 これが、奇跡の紀元前5世紀生まれなんですよね。ソクテラスとブッダが同時期に存在しているという。ただ二人と違うのは、孔子の読み書きして喋っている言語は残っており、それというものが世界最古の”現存する”言語体系だということですよ。
 文化っていうものが、学問を通じて文明になったわけでね、文明っていうものが人類最大の武器な訳です。

 別のいいかたをすれば、中国つうか、中原に隣接する諸民族はずっとこの男の暴力にさらされ続けているわけですよ。
 この男の思想性がどうのという問題ではなく、文化に対して文明というものがが強すぎるという問題ですよ。

 学問始めようぜ宣言の何が暴力的ってね。
 孔子の言動録である論語にはあまり観念的な用語がないんですよね。
 それこそ、論語に嘘が少ない理由でもある。
 孔子以前には目立った思想家ってあまりいないし、思想家があまりいないということは、形而上のことを考え、概念を整え、観念的な思考を確立している人物がいないということであり、また、その用語を整理している人間もいないということであるわけでね。同時に、学問の最大の目的って、目には見えないことを「考え、整え、確立する」ことなんですよ。
 つまり、弟子にそれをやれといった男な訳で、そういう道があるぞと示したのがでかい。
 で、論語の時代にない言葉に、それこそ「道徳」があるわけです。ちゃんと読むとわかるけど、道と徳を合体させた「道徳」という言葉は論語には出てこない。つまり、孔子の時代に、このような観念的な用語がなく、言い表せないことだったということがよくわかる。
 時代が二百年ほど降った孟子や荀子の時代になると、その言葉の多くが観念的になっている。
 ようは、孟子荀子の読みやすさや理論の整然とした形式は、孔子の「学問のすすめ」の起こした革命の結果なわけです。

 たとえば、仁義なんていうのも、すっごく観念的なわけです。仁も義も目には見えない。ましてやこれを合体させた用語なんてのは影ぐらいしかない。これも論語にはなく、孟子には出てくる。
 人々が学問をすると、観念的な用語が爆発的に増えるわけです。
 これが、武力以上の暴力な訳です。


 武力で圧倒したところで、人を一人一人武力で抑えるわけには行かない以上、観念って強いんですよ。ようは、道徳や法律のパワーってすごいの。
 法律なんていうのは、その用語に、物質的なものがあまりに無いんですよ。
 ようは、法律って、観念的な用語の塊であって、その観念的な用語の塊が、物質世界の物質の性質を規定している。
 こんな暴力ないっすよ。
 だって、法律に基づいた文章で証明できれば「ここの土地は誰が住んでいようが俺のだ。でてけ」って言えるんだから。
 刑法なんてもの、総論なんてのは普通の人はわからないですよ。観念の塊。
 要は、人間ってのは、観念的な用語によって思考と行動を制限され、それを自前の感覚だと思い込まされているわけです。
 つまり、学問を発明した男はとんでもない暴力的な男ってわけです。
 
 ようは、王族とかって、冷静に考えてみりゃ、先祖が武力を持っていて国を支配したからって、なんでその子孫まで偉いんすかって話ですよ。それを支える観念的なものがなけりゃ無理ですわ。そんなん。
 で、武力がいくらあっても、こういう理屈をこねくり回せないと統治はできないわけです。結局、漢民族の官僚を使わないとあかんのはこういうことでね。でも、漢民族の官僚を使うってことは、次第に支配者層の頭の中が入れ替わるじゃないですか。
 で、その官僚って、孔子の学問を引き継ぐ孔子的暴力集団なわけです。

 
 

  
 

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多様性とは格差のこと 言語と国際大学ランキング

多様な文化が生きる社会とは格差社会のことであり、格差のない社会は画一的な社会のことである。
 このかん、ツイッターだのなんだのの議論を見聞きしていると、誰も本気で物事を考えていないし、そもそも本質に迫るほどの智慧のある奴なんてネットにあまりいない。

 日本の大学国際ランキングがガンガン落ち込んでいるんで、言わせてもらえば、日本語はいつ絶滅危惧種になっても不思議じゃなく、モンゴル語の心配なんてしてるほど安定的な状態ではないし、日本の大学国際ランキングが低下していることと、モンゴル語教育がうまくいかないことは問題の根っこがおなじ。

 ようは、いい教育を受ける=貧困から抜け出す、という構図の問題である。
 現代社会はいい大学に入りより良い教育を受けることが、最も安定して人生を成功させる術なんである。

 中国語と内モンゴル語(こう言わせてもらうのは、モンゴルのほうはすでにモンゴル文字を捨て去っているので、別の文字を使う別言語なんですよね。そういう意味では内モンゴル自治区のほうが本来のモンゴルの言語が残っている)の関係は、英語対多言語の関係に似ているという問題である。
 つか、まー簡単に言わせてもらうと、発展途上国に行くと誰でも英語を話せるでしょ? そういうことだよ、そういう。だからアメリカとアメリカかぶれは黙ってろ、お前らがいちばんの暴力的存在じゃわい、と思うわけです。
 大学国際ランキングは英語圏のが強いのは、英語が事実上の最強の”学術言語”だからです。
 つまり、学術の世界では 英語が絶対であり、他の言語は相対的なもの、という状態になっているわけですな。

 昔はロシア語やドイツ語やフランス語もその地位にあったんですがね。
 で、中国の大学の躍進がめざましいのも、中国語が再び学術言語としての地位を確立してきているから、です。
 しかし、同時にこれが民族問題のさらなる複雑化を招いている。
 中国語は方言の発音の差が激しい言葉ですが、どの方言も文字の意味は同じなわけで、読むと書くについては差がないんですよ。しかし、諸民族の言語となると話は別である。文字も文法も違うんだから。(満州語も絶滅危惧だけど、もともと満洲文字ってすごく複雑なルールのものだから、もとから貴族しか読み書きできない。モンゴルのほうはロシア語と繋がりがふかくなりすぎてキリル文字を使っている。)
 それにその地方に行くと本当に言語環境が混沌としており、おそらく中国と他国の国境沿いの地域の正確な状況分析をしている分析官なんてほぼほぼいないと思って良い。
 私が、状況分析的に最も正しいと思っているアカウント、ロシアの大学に留学して、そこらの諸言語に明るい人だからね。
 中国の西側の状況分析は5つぐらい言語ができないとできない。
 ま、この話はおいておくっす。

 学術言語を持つことの強みとは、文化侵略的な強みであり、同時に、学術言語を有する国はいろんな意味で強い国ってことですよ。
 簡単にいうと、複雑かつ観念的なことを伝えられる言語って強いんですわ。
 同時に、それは蓄積であり、古代から歴史や哲学を記述してきた言語は強い。なんで、ラテン語や古代ギリシャ語だって今だに勉強せないかんわけで、化学の基本を作り上げたアラビア語なんてのも強い言語なんですよ。

 つまり、頭が良くないと生きて行かれん社会な上に、頭の良さって残酷なことに「母語の豊かさ」で決まるんですよ。
 乱暴なことを言うと、6000語しかない言語では6000語以上のことが考えられないし、そこに10万語の語彙を持つ言語が襲ってきたら一溜まりもないって話です。おそらく前者では形而下的なことしか表現できないし、後者は形而上的なことを考えるのに長けているわけです。
 頭の良さと言うのは、いかに、形而上的なこと、つまり、概念や観念的なことを考えられるかと言う問題であり、いかに歴史的な蓄積があるかという問題でもあるわけでね。
 これはその言語を母語としている人数とは関係がない。
 国連の国際共通語に中国語が入っていてもヒンドゥー語やポルトガル語が入っていないところからそれは明白である。
 これは文明と文化がぶつかると、大抵、文明が勝るということでもある。
 

 これがまた悲惨なことで、マイナー言語ってだいたいが文法文字規則発音がくっそ複雑なんですよ。習得するのに時間がかかるくせに……。

 
 頭が良くないと生きて行かれん社会が続くと、まぁ、おそらく続くしこれからますます悪化していくんだけど、そうなると最悪、世界には十個ぐらいしか言語が残らん。家ではその国の言語を喋るかもしれんが、学問の世界ではそうなっていくし、次第に、母語が英語で補助的に本来の母国語を使う、というような複雑なことになっていくだろう。
 人は利害や利益に沿って行動するんで、はなっから英語で教育っていう親は日本でも途上国でも増える一方になるだろう。
 つまり、日本語って、私が予想する十個に入れるかいなかの瀬戸際にいるんすけどね。
 
 そもそも、国連なんてそこらへんのことをわかっている連中のおもちゃなんで、国連の公用語って6か7ぐらいしかないし、国連の文書は英語かフランス語が基本です。あと、国際司法裁判所の公用語も英語とフランス語だ。
 つまり、英語かフランス語、どちらかが本来学ぶべき価値のある言語ってことですね。はい。

 そもそも、保守派の人って六明社の人とか褒めちぎるけど、大事なことを忘れているよね。
 ほぼほぼ、その人たちって、学問的な功績のほとんどが”翻訳活動”だよね、ってことです。
 まぁ、まず、不必要に横文字使うなって話でもあるんですけどね。
 
 で、今の日本の政治家はバカばっかりだから、日本のことをどうにかするためには理系の分野にだけ全ツッパ、これが選択と集中ってどやっていますが、学問の基本的なインフラは言語なんですよ。文系の学部に金入れる気がさらさらないんだろうけど、これがまずい。つか、文系の学問って明らかな失敗も成功もない上に、金が基本的にかからんのだがね。(例えば、哲学の研究家に1億入れても余るんですよ。本がすでに揃っているから。これが理系の研究だと1億って人件費にもならない。ゲームとかの制作費と同じね。で、儲かる理系の研究をするとなると、医学や製薬に限られていき、ますますドツボにはまる)
 このままだと高い金いれて、アメリカあたりに文化侵略され、高い金かけて育てた学生たちがピペット奴隷としてアメリカに輸出されるというオチが待ってますな。
 
 

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