猫柳の隠れ里にある、庵です。 よろずのことを語るブログです。 政治やら思想やら宗教の話もするから苦手な人はスルーしてね。
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私なりの仮説として。
三国史記を参照してみると、百済から倭に伝わった漢語が呉音であった理由は、百済が南朝と結びつき、北朝と関わりがほぼまったくなかったからじゃないかと思います。
高句麗、新羅、百済が中心的な国家に成長して鼎立した時期の朝鮮三国時代の中華王朝って、ほぼ完全に五胡十六国時代及び南北朝時代の分裂期と被っているんですよね。
で、百済本紀で記録されている限り、一番最初に朝貢をした相手が南朝の礎となった東晋で、それ以前に中華王朝とどんな結びつきがあったかは不明ですが、初めて中国の史書に登場する百済王も、この東晋に朝貢をした近肖古王です。この時に百済で初めて文字が使われ始めたとも書かれています。
以後、隋が統一するまでに百済が朝貢した中華王朝は、一度北魏に朝貢したのを除き、すべて宋や南斉、梁といった南朝が相手です。
北魏に朝貢した際、百済は「高句麗が邪魔してそちらに朝貢できない」と訴え、北魏も高句麗が昔からの付き合いだからとそれを一旦斥け、その間のやり取りでも海路では難破の危険があること、陸路では百済も北魏も使者が高句麗に通行を邪魔されてやり取りさえ満足にできないことが記録されてます。また、百済が北魏への朝貢をやめたことも記されています。高句麗に阻まれていたがために、百済と北朝はほぼ交流がない。
統一王朝の隋は短命、唐に代替わりして間もないうちに百済は滅んでいますから、百済に北部の漢音が流入するタイミング自体がほぼなく、倭に伝えた漢語については尚のことだったのではないでしょうか。
呉越と三韓南部と倭国で刺青の風習が一致している点などを想像すると夢がありますよね。
漢より遥か前の「倭人」というのは、あのあたり一帯に住んでいた海洋民族なんじゃないかと考えたり。
私なりの仮説として。
三国史記を参照してみると、百済から倭に伝わった漢語が呉音であった理由は、百済が南朝と結びつき、北朝と関わりがほぼまったくなかったからじゃないかと思います。
高句麗、新羅、百済が中心的な国家に成長して鼎立した時期の朝鮮三国時代の中華王朝って、ほぼ完全に五胡十六国時代及び南北朝時代の分裂期と被っているんですよね。
で、百済本紀で記録されている限り、一番最初に朝貢をした相手が南朝の礎となった東晋で、それ以前に中華王朝とどんな結びつきがあったかは不明ですが、初めて中国の史書に登場する百済王も、この東晋に朝貢をした近肖古王です。この時に百済で初めて文字が使われ始めたとも書かれています。
以後、隋が統一するまでに百済が朝貢した中華王朝は、一度北魏に朝貢したのを除き、すべて宋や南斉、梁といった南朝が相手です。
北魏に朝貢した際、百済は「高句麗が邪魔してそちらに朝貢できない」と訴え、北魏も高句麗が昔からの付き合いだからとそれを一旦斥け、その間のやり取りでも海路では難破の危険があること、陸路では百済も北魏も使者が高句麗に通行を邪魔されてやり取りさえ満足にできないことが記録されてます。また、百済が北魏への朝貢をやめたことも記されています。高句麗に阻まれていたがために、百済と北朝はほぼ交流がない。
統一王朝の隋は短命、唐に代替わりして間もないうちに百済は滅んでいますから、百済に北部の漢音が流入するタイミング自体がほぼなく、倭に伝えた漢語については尚のことだったのではないでしょうか。
呉越と三韓南部と倭国で刺青の風習が一致している点などを想像すると夢がありますよね。
漢より遥か前の「倭人」というのは、あのあたり一帯に住んでいた海洋民族なんじゃないかと考えたり。
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