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猫柳草庵

猫柳の隠れ里にある、庵です。 よろずのことを語るブログです。 政治やら思想やら宗教の話もするから苦手な人はスルーしてね。

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小説とは何か

小説とは

 小説とは英語novelの日本語訳です。
 しかし、当然これは漢語であります。古来中国における本来の小説は怪奇的な物語や伝説を集めたものだったりします。その多くが巷で聞かれる噂話程度の話。中国で文学と国家の関係を論じた曹操の子曹丕は、もっぱら小説、簡単にいうと怪奇伝説を集めていました。曹丕は当時の上流階級者としては、というより、中国史上でも珍しい小説家です。
 その後、文学の王道はやはり「詩」になります。同時代の詩人といえば、曹丕の弟である曹植が有名ですね。なんだか、この兄弟、本当になんか、こう、親の才能が極端な方向に現れていますね。二人で一人だったら完璧だったんじゃないですかね。
 その後、「小説」という言葉は、日本でも同様の運用をされ、もっぱら戯作者が半ば自嘲地味に使用する言葉でした。
 明治に入るとこの状況が一変します。
 小説に<novel>という概念を日本に輸入してきたのは英文学者の坪内逍遥であり、彼自身が書いた「小説神髄」で日本に紹介されます。彼はいざ小説を書いてみようと「当世書生気質」を出しますが、これはいまいち彼のいう小説の定義にいまいち当てはまりません。坪内、小説を日本に紹介したくせに戯曲研究に精をだします。
 その後、坪内逍遥に影響をうけた二葉亭四迷が「浮雲」を執筆出版します。これが日本の近代小説の始まりとも言われています。このとき提唱されたのが、勧善懲悪をしりぞけ、リアリズムが主張されました。二葉亭四迷はロシア語を外交官を志して学んでいたので、その文学性にもロシア文学の影響が見えます。
 しかし、この小説という言葉、やはり定義がよくわからない。
 「個人の思想信条をわかりやすくストーリー仕立てで説明するもの」や「一人の主人公によって必然的に物語が連鎖し収束する」ようなものを小説と本来よんだようですが、フランスのアンドレ・ジッドが「偽金つくり」を執筆して、これまた小説の定義はブレにぶれます。この小説は単純なプロットを排除し主人公が多人数存在し、多数の視点が存在し、それが複雑な物語をおりなしています。これは当時の既存の小説の定義から大きく離れた小説でした。
 これは世界中の文学に影響を与えました。
 日本では、新感覚派(横光利一・川端康成)に影響を与えます。
 その後、小説は小説の定義そのものを破壊するようになっていきます。

 戦後、多くの小説作品で「これ、本当に日本語か?」みたいなものが出てきますが、あれはあれで小説の一つの姿だと言えます。アートと同じような進化を辿っている、と言えばわかりやすいでしょうか。

 このように、小説を論じる時、物事は一筋縄ではいきません。
 おそらく、小説を読んだことのない人はいないでしょう。
 しかし、その定義はあやふやで難しいものです。
 定型の決まっている詩や歌のように、この規則を守ったらこれ、というものではないからです。
 



 なんでこんなことを書いているのか。
 第一に、このブログは、文章書いていないと文章能力が下がるから書いているのもありますが、私の好きにするブログなので、いつから誰かの目に止まればいいと思いながら書いています。
 で、私は漫画読むより小説読む方が早いために、今まで、散々「モヤモヤ」する小説を読んできたので、これを一気に吐き出して楽になりたいのです。ちなみに、漫画を読んでもあまりモヤモヤしません。アニメ映画もそうですね。
 餓狼伝とか、小説版も漫画版も読む速度変わらないんですよね。一冊を15分ぐらいで読んだ時、これ、漫画より早く読んだな、とびっくり。
 そのまえに、お前は小説についてどれぐらい知ってんだ、と言われると困るので、こういうことを書いているわけです。

 で、お前さんは小説すきなのかい? と聞かれると、時々無性に読みたくなるけど、読むと大抵ガッカリする、という、そういうものです。

 小説は、そうは言っても作者の視点、キャラクターの視点から逃げられないものだからこそ、モヤモヤするのだし、このモヤモヤこそ、近代国家において、近代人を育成してきたモヤなので、なんていうのか、わかっちゃいるけど「啓蒙」みたいな概念がまとわりつくものだな、と思います。
 そして、現代の小難しく、何を書いているのかわからない小説は、「啓蒙」のその先にある「振り分け」のように感じるからです。アート無罪論とかを聞いている時に感じる傲慢さみたいなものを感じるからです。
 それも、書き手ではなく読み手を試すようなものですからね。
 
 個人的には、明治以前の方が文芸ジャンルの定義はさっぱりしていると思います。
 

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小説と近代 一人称視点の暴力

小説がもたらすもの

  何事からも何かを学ぶ、それが私 猫柳なんです。
 だもんで、この小説を読んで、改めて小説の持つ暴力性に気がついたわけです。
 それは、一人称単独視点の小説は容易に人を、誰かの観念世界に引きずり込むことができるという魔術が使えるってことです。簡単にいうと人格のトレースを無理くりさせることができるわけだ。
 だもんで、私がしがないタクシードライバーにもドラゴン退治の勇者にもなれるのが小説。
 それも、場面場面で主人公が感じていたこと、考えていたこともトレースさせることが可能な分、漫画やゲームやアニメにはできないことであると言える。
 まさに、文字だけで構築されたメディアだからこそできる芸当なのだ。

 三人称 もしくは複数視点の小説の場合、統一した人格に誰かを引き込むことはできない。その代わり、複数の視点による複数の考え方を客観的に提供できる。 

 何にしても、思考感情といったおもてに出しにくいことを、相手に伝えることができるというのは、小説の旨味である。

 思考や感情を映画にしようとすると、熟練したカメラマンや照明、卓越した役者が必要となってくる。
 小説なら、印刷機があれば大量に擦れる。
 
 だもんで、近代化の政治的アイテムに小説が使われたのは、むしろ当然というか、むしろ小説が近代を生み出したと言っても過言ではない。
 作者の視点に無理やり読者を引き込めるからね。
 
 逆っていうか、裏みたいなことをいうと、小説が廃れたこと、小説が批評されなくなったことと、大きな物語の終焉の訪れは一致する現象だろう。

 しかし、これが、ものすごく深い知見から得られた思想だとかならいいんだけど、例のごとく、ついていけない死生観、幼い思想、都合の良いファンタジー、そんなものを植え付けられるぐらいならむしろ読まない方が心にいいわけでね。
 しかし、小説の読み方をマスターすると、おそらく騙されにくくなると思うよ。
 問題は、学校の現代文をやってもそれをマスターできないところにあるんだけど。
 大学の文学部行っても身につかない人には身につかないのが問題なんだけど。

 なんだろ、アニメやゲームに若者が行く理由はわかるんだよな。
 小説って、誰かの思考に数時間ぐらい染められるわけで、合わないものは本当に合わないし、苦痛なものは本当に苦痛なんで、読むのにトレーニングが必要なんだよな。
 簡単にいうと、小説読むのは、作家とのスタンド対戦みたいなもんだからねぇ……。
 

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小説を読もうと思う 連続してカスを掴む

食堂かたつむり

 現代の小説をあまり読まないんですが、まぁ、なんだ、年に数回フラーっと現代の小説も読みたくなり、キンドルで買ったり借りたりサンプルをダウンロードしたり。で、今回はサンプルの段階ですんげーカスを掴んだわけで。ある意味30ページでわかる地雷だったからいいんだけどね。

『食堂かたつむり』っていう映画がひどいっつーんで、原作小説つきでそーんなひどいこったあるまい、なんか映画撮った人らの解釈が間違ってるんじゃないの? 過度にファンタジーにするために、過度にキャラクターたちが誇張されてるんでしょ?
 みたいなことをおもった私が悪かった。
 たぶんな、映画の方がましだよ。まし。

 大体何がっいやーって、一人称視点の小説なんで、この小説の主人公のありとあらゆる行動や心情に付き添わねばならぬという苦痛が痛くて苦しい。
 何がって、その主人公の死生観が理解できない!
 なんだろー、ものすごく特殊な宗教にハマった人の内面をのぞいている感じがしたね。
 15歳で都会にでてレストランで働いて祖母と暮らしていたんだけど、その祖母がある日、帰ってくると死んでいた。で、こいつ、わざわざ祖母が死んだことを確認してから、その場にあったドーナッツを貪り食い一晩を過ごす。それも、混乱していたとかじゃなくて、祖母との思い出を噛み締めながらほっこりしたかったから、みたいな、という、なんかこう、なんて言えばいいんだ。ぼってーきょうてぃ、です。つまり、すごく怖い。
 何が怖いって、映画でもそういうシーンがあるんだけど、映画の場合は、演技している人を私が見ているだけでしょ? そのシーンを。見てる方は、なんだこいつって思ってりゃいいわけだよ。ハンニバル レクターが人の脳味噌食ってるシーンみたいに思ってりゃいいわけだ。
 小説は一人称視点だから、その時、主人公が思ったこと、感じたこと、ドーナッツの味、ありとあらゆることを主人公の視点からお送りされるわけだ。特に、ご遺体の横で食べるドーナッツの味なんて表現されても、理解することを私の頭が拒否するわけだよ。

 でー、トルコ料理屋で働きながら、インド人と付き合うのだが、ある日家に帰ると、そのインド人に糠床以外を持ち逃げされる。で、失語症的な症状がでて、しょうがないから生まれ故郷である「おっぱい村」に帰ることにする。つか、持ち逃げ彼氏をインド人にする必要性ってなに? 
 ここらのくだりも、一人称視点であるが故に辛い。
 そのインド人彼氏を取り巻く淡い妄想を3ページぐらい読まされる。
 辛い。
 そう、逃げ場がない。
 でー、しょうがないから、ろくでなしオカンから金をもらいおっぱい村で食堂を開くことにする、というのが本編。
 私、そこまで行く前に心がへし折れました。
 だって、おっぱい村に帰ってきたなり、こいつがしたことって、野原で野ションだよ?


書評っぽいなにか
 海外で賞をとりに行くために書かれた作品だと思った

 最近の作風は比較的マシらしいんだけど、まぁ、編集しだいじゃない? ってところ。
 つまり、こういった、食と倫理、食と生命、みたいな重たいテーマじゃないから、露呈しないだけで……。

 で、映画のあらすじでは、色々とあれやこれやで、主人公が「水鉄砲に○子詰めたもので受精」という、なにそれ乱行パーティーの隠喩? って方法で妊娠出産されたことがわかり、主人公は不倫の子ではないってわかったり。
 ろくでなしおかんは初恋の人と結婚してすぐに癌で死んだり。
 ペットの豚をと殺したり。


 まーわかるんだよ。
 テーマがおそらく 食と倫理 食と生命 みたいなもんだろうな、とは。
 ただ、伝え方が悪いし、そこに、生と性みたいなものも入れてしまったことで、むしろファンタジーが壊れているんだよね。
 そして、実のところ、食と倫理みたいなテーマをファンタジーで伝えることも不誠実なんだよね。だって、それ以前のエピソードが全部、ご都合主義なんだから。
 「かもめ食堂」「深夜食堂」「極道メシ」みたいなものあるけど、それらは「食と生活」みたいなテーマの方が近いので、違うんだな。
 やっぱり、飼っていた豚を屠して死にゆく母の披露宴に出す、という場面は「食と生命」がテーマなんだなぁと。生命の教室ってあったじゃない? 小学生が豚を飼って、それを調理するっていう。
 ただ、伝え方が悪い……。(たぶん、食堂かたつむり をここまで真剣に批評してるの私ぐらいだぞ あぁ辛い)
 たぶん、作者がテーマを煮詰めることなしに描き始めて、こんな重たい話になったんだと思うんだよ。
 序盤から母親が死ぬっていうことがわかっていて、その覚悟をもって豚を飼っている、という風にしないと、読んでる方は困惑するよね。
 
 あと、これがミッドサマーみたいだっていう感想もあるけど、なんていうのか、所々に、意図的なのか無意識なのか、宗教的なイメージも多くつかわれているんだよね。
 処女懐胎、最後に出てくる白い鳩、不倫の子と言われて虐められる主人公、野ションしたあと見つけた雨蛙指先をかわす、と探せばもっと見つかると思うんで、これはキリスト教圏、もしくは聖書をはじめとした西方の神秘主義をわかる人が読んだら別の感想が生まれるだろう。
 で、最後の最後は、店の前で死んでいた白い鳩を食べた主人公は、それで言葉を取り戻すんだけど、これも宗教的モチーフだよね。白い鳩はキリストの父のモチーフでもあるから。神の肉体を体に取り入れることによって、ロゴスを取り戻すなんて、すっごい宗教モチーフじゃん。
 舞台のおっぱい村っていうのも、女性原理的な世界観の話をしているのだろう。

 た、だ、これを受け付ける日本人、つーか、東洋人は珍しいだろう。
 
 これ書いた作家は、清泉女子大に通っていたらしいから、キリスト教の知識があるんかもしれないな。
 
 んでもって、あれだ、えー……。
 うん、キリスト教文化圏なら、処女懐胎だの不倫の子だの、白い鳩だのが、記号やナラティブとして成立していて、勝手に思想を読み解けるんだろうけど、日本人はそうじゃないから。
 だからなのか、フランスやイタリアで賞をとっている本でもある。
 おそらくカトリック圏の人にとって、納得できる世界観の本なのだろう。
 それこそ、マリア信仰のある場所だな。
 まぁ、なんだ、マリアの話をしてるんだ、マリアの。
(しかし、他の作品にはそういう宗教的なもんを感じないんだけど、誰かが入れ知恵したのか?)


 冷静に考えれば、フランス人はかたつむり食べるしね。フランス人なら 食堂かたつむり って違和感感じないよね。 

 で、調べてみたんだけどさ、ヨーロッパでは怠惰象徴とし、罪人なぞらえた。だが一方、露を吸うだけで繁殖していると信じられ、中世教会では処女懐胎真実性を示す生物だともされた。
世界宗教用語大事典  weblio 辞書

 だってさ。
 やっぱりそうじゃん。
 じゃあ、キリスト教圏の人なら、カタツムリ、っていう単語が出てきた時点で、主人公が処女懐胎で生まれたっつーても驚かんのな。
 
 むしろ、ヨーロッパで賞を取ろうとして、日本人にドン引きされている本だな。これ。




 しっかし、小説ではこういうカスを連続で掴み続けているんで、こりゃ本読まねーわってなってる。アニメ見てる方が心にいいもん。
 しかし、黙っているのも心に悪いので、ワイの掴んだカスをお送りしたい。
 なにせ、読んだことを記憶から、悪い意味で消したい物ばっかり読んでるからね。
 そういうのを選んでいる気はないんだけどね。

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落札してよかった

漢詩体系 詩経-上-1966年-青木-正児
 なかなかの大きさと重さの本が24冊きました。
 大体一冊800円前後、いやぁ、安い安い。
 あと私の場合、出品者さんとの相性がよかった。
 一冊一冊フィルムに入っているし、すごくぴったりと段ボールに入っていた。
 箱がちょっとボロいだけで、中の本は美品。

 元々が装丁の綺麗で丁寧な本なので、満足。
 なにせ、表紙が布張りだよ布張り。
 しかし、1966年当時で三千六百円ってすごい強気のお値段。
 その代わり中も外も素晴らしい。

 で、何が素晴らしいって、解説。
 解説がとにかく充実している。
 なにせ、500ページ近い本で上下巻だ。
 詩経をそこまでの分量で解説してくれている本はない。
 なにせ本文そのものは300篇ちょっとしかないので、元の分量そのもので言えば多くはない。
 なんで、本文の数十倍もの文字数での解説がある。
 その解説も伝統的な解釈の分量が多い。

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中国語 喉ならし

基礎の発音をやらんとまずいなーと思い、「通訳メソッドを応用したシャドウイングで学ぶ 中国語基本動詞93」をやってんですがね、これが辛い辛い辛い。なにがって喉が辛い。家族意外とまともに喋っていない日々を過ごしているんで、43分ずーと喉を使うのが辛ーい。

 シャドウイングっていうのは、聞こえてきた外国語をそっくりそのままコンマ数秒後に鸚鵡返しして喋るっていう学習法なんだけど、これがねー辛い。
 なお、聞こえてきた外国語をそっくりそのまま書き下ろすというディクテーションっつーのもある。

 喉も痛いんだけど、顔の筋肉も痛いし、舌が動かない。
 半年ぐらいサボったツケを払っている感じですわ。

 中国語は発音よければほとんど良いみたいなことを言う人がいるんで、頑張りますわ。

 1日1回これをやり続けたらすっごい実力つくんじゃないですかね。

 飴ちゃん舐めながら頑張るっす。

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