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猫柳草庵

猫柳の隠れ里にある、庵です。 よろずのことを語るブログです。 政治やら思想やら宗教の話もするから苦手な人はスルーしてね。

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出雲 is のっぴきならない場所でした

なんていうか、実際行ってみると、10時間ぐらいかかってたどり着いた茨城でした。
 これは本当に気候風土が似ている。
 実際、考古学的には、茨城から島根へ渡った人たちがいるということで、なんとなく納得。

 スピリチュアルな人が好きな感じの人が受ける印象とは別に、私は「ここは信仰以外の目的があって作られた場所だぞ」と実感。森の中にあるわけではなく、開けた山間にどーんとあり、伊勢神宮より歩かないから参拝そのものは楽でした。

 最初、出雲退所の元の形は、天体観測か宗教的な意味から作られたと思っていったんですがね、民族資料館みたいなことろに占星術的なものがないんですわ。まぁ、冷静に考えたら、日本はどこにいっても山があるから、山の上で天体観測した方が楽だよね、と。だって、山の上で空が綺麗だから、ハワイ島にいっぱい天体観測所があるわけで。
 それに、宗教的理由だったら、鎌倉時代から神社の建物の様式が変わるのは変だよね? と。

 これは宗教施設の皮を被った、物見櫓だったのでは? と。
 それと、国を譲る時に、自分の神殿が一番立派だと嬉しいから高くしろ、っていうのも。そもそも、ものすごく高く見積もって45メートルの高さがあったらしいので、そんなに高い建物を作る理由もよくわからない。立派か立派でないかという話をするなら、そもそも、多層的な建物が他の神社にはない。(つまり、現代人にとって三階建ぐらいで、十分高いと言える。45メートルというと、現代の建物でビル14階相当である。30メートルでも10階建ビル)
 しかし、あそこに45メートル級の建物があれば、周りの山全てを監視することができますわな。上り下りは当然足なんで、丈夫な屈強な男しかあの神社では働けないですな。(10階建て以上のビルを上り下りですからな)
 それに、何かを察知して、狼煙をあげたら島根中から見える立地でもある。
 それに、土地が開けているから、兵士を集めて出兵とかも楽だろうし。

 それと、夥しい数の鉾、鉾、鉾。
 関東の考古学資料館にはまず見ない数の鉾。
 あと、大量のどうたく。
 これが剣ならば、さすが神が集まる場所、と思えますが、鉾、となると話が違う。鉾は実用品ですからな。
 しかし、それが綺麗な形で出土している……。
 ここ、なんかの巨大な戦争の準備してない?
 つまり、出雲は、神(部族長)が集まって、普通ではない敵(しかも少し技術度が高い)と戦争の準備をする場所だったのでは? 
 民族の緩衝地帯だということが分かったのですが、そんなこと言ったら関東だって縄文土器も弥生土器も出るわけでね。

 それに、国譲りの最中、国津神と天津神である猿田彦とアメノウズメっていわゆる国際結婚してるんだよね。(で、これがなぜか、戦前、隠蔽されていた)
 だんだん、国津神VS天津神ではなく、国津神アンド天津神VS何か、って感じの話だったんじゃないかと思えてきた。
 これ、日本版の封神演技みたいな話だったのかも……。
 国津神VS天津神だったら、勢力的に負けたほうの家に集まる理由もわからん。大国主の
土地が敵地に近い参謀本部みたいなところだったから、というのがわかりやすいかもしれん。

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古代ロマンと島根

出雲大社に行って、博物館にいったんですがね
いゃあ、頭使いすぎてたいへん

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みんな法律を偉いと思いすぎ

別に法を破れとは言わないっすよ。やっぱり前科つくと面倒な気がするし。
 ただね、裁判官やら弁護士やらのいうことを、みんな重く受け取りすぎだよ。
 法律に期待をしすぎている。
 だれかに人権を侵害されても、裁判を起こせる行動力とお金が必要なんだから。100万払って引き換えることができるクーポンぐらいなものですよ。
 生きていくためにはある程度は必要な知識だが、それを超えるものではない。
 なるだけお世話になりたくないし、トラブル回避のために知識はある程度必要ってだけ。
 本当の意味で生きていく力を養うものじゃないよ。
 銀行とかと一緒でAIになる日は近いね。
(でも、どうしても必要だったら、行政書士必勝テキストとか一冊あるといいよ。アレにほとんどの必要なことは書いてある)
 
 法律の条文ひとつ知ってるより、詩を一つ知ってるとかの方が、余程”本質的な生命力”ですよ。

 
 
 

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世界は一度、閉じられるべきだ

そもそも、普遍主義と相対主義は両立するものではない。
 なんだか、相対主義を普遍主義を否定するものではないいう人がいるが、相対主義を正しいと思いながら普遍主義をやるのも、その逆も、欺瞞的な状況でしかない。
 神や天がいないということを理解しながら、まるでこの世に普遍的な永続的な価値観があると思い続けるのは無理がある。
 神や天がいるという確固たる確信があるのに、あらゆる価値観が相対的に扱われるべきだというのにも無理がある。

 相対主義と普遍主義のバランスが取れるという態度には、物事は突き詰めると、天や神の存在や不存在を問いかけることになるという覚悟が足りない。そういう覚悟なしに物事やるのは頭はいいだろうが、本質的な学びにはならない。
 別にそれは神や天じゃなくてもいい。
 ものの性質とか法則だとか、形而上的存在だとかだ。
 神のようなものと言ってもいい。
 これは一神教の神でもいいし、儒教や道教における天でもいいし、神道なら造化三神と言われるようなものだろう。
 
 しっかし、まだまだ世界は普遍的なものを成立させるには広すぎるし。
 一度、世界を閉じてみたらいいと思う時がある。
 それに、法律という価値観が強く人を支配しすぎている。

 と、いうのは、徹底的に”普遍主義”を問いながら”相対主義”を振りかざしている分野が、国際法の世界だからだ。
 戦争が悪ならば、全ての戦争当事国は戦争裁判にかけられるべきである。
 国際条約が絶対的に正しいのならば、それに”入らない”国を徹底的に糾弾すべきだ。
 しかし、とうの国際裁判所ってところは、領土に関して”歴史主義”と”実効支配主義”を都合よく使い分けているのが実のところである。そう、いい加減なのだ。
 おそらく、アジアの領土問題は、西洋人がついこの間作っただけの国際法では解決できない。

 この世で最も法律を信用してないのは法学者であり、法学者ほど天の存在を考えてない人々もいない。経済学者の方がまだ敬虔だ。

 天がないなら、全ての法律は人間が適当に書いた文章の塊でしかない。なぜそんなものが未来に向かって効力があるのと言えるのか。
 片山さつきあたりが天賦人権論をくさしていたが、これに大して徹底して「天が存在するからこの世に人権があるのだ」という法律関係者がいただろうか? なんか、みーんな歯切れが悪かったよね。そりゃそうだよね、片山さつきって東大だよね? じゃあアシベ憲法とか絶対読んでるし、それどころかそれぐらいの大先生に教わってるんだよね? って話だよね。
 どうせみんな「そんなオカルトめいたものはない」と思ってんだよな。

 えーと、法律の世界の根幹がないのなら、そのない世界で、いかに法律が機能しているのか、疑問に思わないのか。全てが人間の作ったものならば、それが未来に大して責任を取れるような性質のものだとどうして思えるのか。ましてや、それで生きたり死んだりしている。行政文章の一枚二枚で運命が決まる。
 みんなフィクションだったら、そのフィクションからみんなが覚めた時が年貢の収めどきじゃないか。

 言って仕舞えば、みんな「頭が良い」んだよな。
 意識的に嘘をつけるというか。
 
 で、じゃあ、どうしてみんな法律守ってんの? って話だよね。
 結局、あれだ、警察が怖いからみんな法律守ってんだって話だったら、この国で一番偉いの警察じゃん。しかも機動隊とかじゃん。

 これで、わたしは逆に「やっぱり法律なんぞに天意は宿らぬ」と確信したがね。
 そう、近代国家は警察組織でもってんのよ。
 近代国家産みの親フランスで警察組織も誕生したのが象徴的だよね。
 世界最強の覇権国家が、警察の暴力で大変なのもうなづける話だ。

 
 

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歴史と文学と コメント返信 

倭人さんから素晴らしいコメントが来たので、記事に返信を書きます。

 この頃の文学トレンド(折口、白川静から、古代文学の呪術性のサブカル消費)がまとまった返信をいただきまして、記事に書くことが無いぐらいなんですが、

 古代史と文学、それぞれにロマンがあるんですが、それを一緒くたにするのはなんか違うなーという疑問。その二つが持つ過度な政治性への批判。

 > そういえば、梅原氏はアイヌを古縄文人だと唱えたことが批判されてますし、実際ネトウヨって昔はアイヌをそういう方向で持ち上げてたんですが、氏の縄文人論って反植民地主義的な民族主義を主張する新左翼がアイヌの古い信仰や文化を顕彰したことの鏡合わせなんですよね。大日本帝国の帝国主義で犠牲になったアイヌや琉球には、もともとそれより優れた(可能性のある)前近代文化が存在した、と。そのヤマト版。画家の岡本太郎氏なんかもこういう系譜。日本は特に非西洋の帝国主義国家だったので、このあたりが結構フクザツで、極右と極左の合流地点みたいになったりする。縄文人と弥生人にさかのぼっての平和的な縄文人と好戦的な弥生人との二項対立による中国人や韓国人への差別もずいぶん見てきましたが、これって新左翼の用いた騎馬民族征服説なんかと認識が軌を一にしてたり。現存する社会問題と流行する学説は連動しているし、こうした流行の起こり方は大学の大衆化やマスメディアの発達に伴って起こった変化でもあるでしょう。

特にここら辺が素晴らしい。
ほとんど言いたいことを言われてしまったかんじである。

そもそも、シュリーマン以降、古代史への社会の目が変わり、古代研究、考古学の価値が固まってから、文学もそれに飲み込まれるように、古代文学への関心が高まった。西洋でも、詩経の考古学の知見を取り入れたオカルト解釈と同じように、考古学を取り入れたギリシャ文学や聖書の読み直しが起きた。
それが結果として過度な政治性を持ち、日本と同じようなことが起きている。
例えば、卍模様とか、あれもシュリーマンがミケーネ文明の遺跡から見つけてしまい、古代アーリア人種に対する優位主義が持ち上がってしまった。このマークの文化圏は思ったより広く、古代ブルガリア・ルーマニアから始まり、インド、イラン、そしてヨーロッパへと広まっている。
この古代史研究の成果が、政治に利用されアーリア人種第一主義へとつながる。

この場合は、ブルガリアで誕生し、世界に広まり、世界のほとんどの文明に影響を与えた! という民族優位主義へと繋がった。
これは、日本における古代縄文人への憧れにも近いものを感じる。
この場合は、弥生人は野蛮! 縄文人は平和的! という優位主義である。

これって、どちらも「古代人」を「現代人」の直接的な先祖にして、間にある複雑なものを全てを取り払っているのに違いはない。
つまり、物事の過度な単純化がおきている。
 
何人にしても、どんな民族にしても、数千年、数百年の間、他の民族や集団と共にいき、共に文化の交流をし、変わりながら生きてきた。突然、古代の生活がそこにある、なんていう場所はすごく少ない。
民俗学や人類学は、今生きている人の生活、にもねざさないと歪んでいく。
つまり、複雑さを失った時、大体がヤバイことになる。

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