詩や戯曲のほうは別ブログにするのは決めた。
で、今度は現代文芸や近代文学、映画、漫画の評論も「人文館」みたいなかんじで分けようと思っている。
このブログは日々、いろんなことを語る息抜きブログってことで。
久しぶりにスタバでお茶なんてしたいなーっておもってtutaya書店行ったんですがね、まぁ、相変わらず無駄に人が居座って結局お茶なんて飲めなかったのもあるんですが。
なんだ、最近の流行りの、戦前の文学作品の表紙を漫画やアニメの絵とか、ちょっと前ならアイドルの写真にしてる、あれ、ああいうのに、あれにいまだに慣れない。漫画やアニメが悪いというのではなく、中身とあまり関係がないとか、そもそも別のアニメ作品のファンを誘おうとしているとか、もあるわけですが、なんか、こう、元々の購買層も大事にしてなければ、新しい購買層も大事にしていないような気がするんですよ。
映画には映画の見方があるように、アニメにはアニメの見方があるんですよ。
漫画には漫画の読み方があるし、文学には文学の読み方があるわけでね。
その一つ一つって簡単に身につけているわけではないんですよ。
で、文学って本当に読むのが難しいもので、本当にテキストや文章内容に集中して、時代背景とかを調べないとといけない分野なんですね。偉い偉くないではなく、文学ってそういうものなんです。
最近、森鴎外の阿部一族読んだんですがね、モゥ、クッソ難しい。
ただ、その難しさの向こう側に「文学にだけある面白さ」というものがあるわけですよ。
「文学にだけある面白さ」を伝えられるかどうか、でいえば、伝えられていないから、文学(文芸)って廃れたんですよ。
なんか、表紙をアイドルにするぐらいなら、もっと書評に拘ればいいのにって思うわけです。実際、学生が文学に触れる機会って一番のものが読書感想文なんだから……。
文学を読む上で重要なのは、作者が何を元に書いて、作者の生きたその時代に何が起きていて、誰がモデルで、どこに嘘を潜ませているか、です。
試されているのは読み手の批判精神です。
教養的にストーリーを読んで感動しているうちは読んでるに入りません。
だもんで、文学ってせめて20歳、もっと言えば30歳すぎてぐらいからようやく読めるようなものなんですよ。
特に、左伝とかを教養として当然読んでいる世代の作家はそう読むものです。
これ、映画に例えると、映画ってストーリーや監督の意思を効果的に伝えるために、すっごく構図やライティングや衣装にこだわるわけですよ。で、構図やライティングの意味を知ると、それだけで映画って、一見つまらなそうな地味な映画でも「なんだこれ、面白いじゃん」ってなるんですよ。