小説とは何か ここで記したように、小説の概念はこの近代においても二転三転しています。実のところ、これが、いかに小説というものが文芸ジャンルとして最近のものか、いかに未熟なものかを示すいい例のようにも思えます。
これは近代アートと同じような変遷を辿っており、ほぼほぼアートの持つ傲慢さを小説という文芸ジャンルは持っていると言ってもいいでしょう。
簡単に言えば「これを読んで分からないのはあなたが文学を分からないアホだからです」と作家の方が言えるような状態なわけです。映画や漫画で同じことを言えばおそらく炎上します。
定義できないようなものが、俺は偉いと言っている状態なので、これはゴールポストが永遠と動かされている状態とも言えます。
本来、文学の王道は詩学であり、それは中国意外の他の文明圏でも同じです。インドでも詩は特別に学ぶべきものでした。
それはなぜかと言えば、多くの詩は韻文であり、その格や律があるものだからです。
簡単に言えば、パズルのように解が決まっており、甲乙の判断がつきやすいからです。内容の前提に決まった形があり、その決まった形の中に、詩語という、詩の分野で使われてきた言葉の整理がある。形のある中で、言葉どうしの結びつきや表現などの内容の甲乙があるのです。
詩というものはこのように学問として考えた時に、その中身が整っています。
日本でも文学と言えば、大体は漢詩を学ぶことでした。
文の格は、戯曲にも影響を与えています。
例えば、シェイクスピアの戯曲は英文学における韻律にそって書かれていますし、歌舞伎の歌は、七五調で書かれています。「月もおぼろに白魚の かがりも霞む 春の空〜」みたいな文章ですね。
簡単に言えば、格調あるの、格調とは何か、という問題です。
このように、格のない文章が文学の中心を占ている状態は、つい最近の現象でもあります。
ましてや、日本など、小説を書いている側や売っている側が自ら「純文学」などという箔を、自らつけてしまっている状態です。なぜ私たちは小説作家の金粉ショーを見なくてはならないのでしょうか? こんなことは日本だけで起きていることです。
文学とは小説だけの専売特許ではありません。あらゆる文芸ジャンルの中の一つとしか言いようがない。
小説だけなぜこれほど高い地位を与えられ、なぜ文学の最高峰のような顔をしているのでしょうか。戯曲と比べて、何が素晴らしいのでしょうか。
この状況は、出版技術と商業的な発展が多く影響をしているでしょう。
言い方を変えれば、現代の出版業態と小説とがマッチしているから、小説がえらいように見えるだけ、とも言えます。
小説が偉くなれば偉くなるほど、その箔に見合ったものが出版されているかといえば……。
そもそも、現代にそれほどの批評家がいますか?
そもそも、批評という文化が廃れているのに、誰が書かれたものの真価を担保するのというのですかね。
やはり、小説は「近代の侍女」のようなものなのでしょう。小説の価値が高まったのはここ二百年前後ですからね。
それにしても、純文学という概念はちょっといき過ぎています。作家は文章を作成する側であり、それを”学ぶ”側ではないからです。それを実現するためには、作家は同時に文”学者”でなければなりません。それも、自分の書いたものを一つ一つ学問的にとらえる作家が必要です。そんなのちょっと気持ち悪いですよね……。
小説だけが特別偉いというわけではないでしょう。