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猫柳草庵

猫柳の隠れ里にある、庵です。 よろずのことを語るブログです。 政治やら思想やら宗教の話もするから苦手な人はスルーしてね。

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書評 武曲 1 あらすじ

これまでの書評
 書評 序

1 あらすじとか

 藤沢周という作家を知っていますか? 知らないのが普通です。村上春樹とか村上龍とかと比べりゃ全然知名度ないからね。
 ただ、この人九十年代のJ文学に分類され、なんだ、珍重されたっていうか……。
 この人、たしか、法政大学で経済とか教えているはず。
「ブエノスアイレス午前零時」で芥川賞を受賞しとります。ええ、芥川作家です。
 なんのかんの言って、ずっと出版はされとるわけで、いろんな著作があります。
 良いことを言えば、この人の文章、読みやすいです。ただプロットが破綻した、「結局なんだったの?」 と言いたくなるようなストーリーの小説ばっかり書いています。
 しかし、この、微妙な知名度、その割に根強いファン層、いろんな著作、読みやすい文章、破綻したプロット……。
 そう、私が一番、横光利一に似ていると感じる作家は彼なのです。


 「武曲」ね、まぁ、内容に一切触れないのはあれなんで、簡単な紹介をします。

 舞台 現代の鎌倉。
 ヒップホップ好きの高校生が、剣道部員の竹刀を踏んでしまったところから、無理やり入部させられる。(ここら辺からついていけない)スラムダンク的な感じで才能あるんじゃね? みたいな扱い。舞台もスラムダンクだしね。
 その高校に、アル中気味の警備員の 部活のコーチがいる。こいつは古武芸者みたいな感じの親父とようわからんが決闘をし、親父の頭を木刀でぶちかまして植物人間にしてる。(もうわからん)
 高校生、寺の坊主に剣道具一式もらう。(な、なんなの、お稚児趣味でもあんの?)
 んで、中弛み気味な色々をへて、二人がようわからん理由で決闘、高校生半殺しに会う。なんか、ようわからん理由で木刀持って雨の中で本当に打ち合う。
 で、そのことが表沙汰にもならず、うやむやになり、なんだか知らんが和解する。鎌倉の警察と教育委員会なにしてんの? 
 その間、二人の世話をしてるかんじの坊主が説教したりする。アル中反省して頭丸める。しかし、坊主、お前、犯人隠匿罪とかにならんの?
 親父が死に、アル中の方がひょんなことから一度顔をだしていた大船の居酒屋のおかみさんが「本当の母親だと知る」で、なんだかわからんが、アル中、再起を誓う。(……)
 で、高校生の方は昇段試験で「なんかがなんか、ファシズムっぽい」的なことを良い、不真面目にやって昇段できない。(ここ本当にわからん)

 簡単にいうと、
 高校生 アル中 坊主の三人がメインキャラクターです。

(これが文庫本で300ページ以上かかる)

 この二人が主役の一人称視点の小説で、この二人の視点が行ったり来たりします。(これのせいで本当に読んでて混乱する。

  ……食堂かたつむり よりひどくない?

 
 で、「武曲」読んだ、最初の感想は「なんだ、これ? 私 何を読んでたの?」だったんです。この思いをAmazonレビューとかに書き殴っても良いんですが、Amazonレビューにあれこれ書き込んでいる人に幸せそうな人を見たことがないので、きっと風水が悪いのでしょう。
 で、この「モヤモヤ」感の正体はなんだろうかと考え、私はふと、恐ろしいことに気がついたのです。
 これ、誉田哲也の「武士道」シリーズと同じ失敗をしてない? とな。
 あっちがネトウヨ的ぶっ壊れをしたのに対し、こっちはリベサヨ的ぶっ壊れ方をしている……。
 もしかすると、……剣道って小説という媒体とすごく相性が悪いんじゃないのか?
 この書評の本題はここです。
 ここの説明をするために、小説概念受容の歴史、小説概念と実存哲学の関係 を語る必要があったんです。

 ですが、まずは内容的な問題を最初に。


 言っておきますが、私に剣道経験はありません。なんで、剣道の分野に関する文句ではなく、あくまで「この小説、出来が悪すぎる」ってところからの文句です。

 とにかく、とにかくですよ、何が起きているのかわからないんですよ。
 ストーリーを追えないっていうのか……。
 あんた、どこでなにやってんの? っていうのがわからない。
 で、何がストーリーの主題なのかもわからない。
 別にね、象徴的だったり記号的なモンを書いているならいいんですよ、まだ。
 例えば、村上春樹に「騎士団長ってなんだよ、はっきり書けよ」とか言わないでしょ?

 これまた、始末の悪いことに、おそらくね「映画ありき」で書かれているんですよ。
 そうです、この小説、映画化されているんですよ。
 作家はだからこそ「わかりやすいプロット」「分かりやすい人物描写」「作り込まれた人物の背景関係」「緻密な舞台設定」「時系列ごとに並べることが容易なエピソード」などに気を配る必要があると思うんですよね。撮りたい映画が実験映画ではない限り……。
 なんていうのか、行き当たりばったりのストーリーなんじゃないの? っていう疑いが終始拭い去れない……。ちっとも「始まりはこうで、終わりはこう、主人公たちのバックボーンは」とか考えないで書いてると。
 なんだかなー、剣道連盟あたりから金をせびるために「武士道」シリーズみたいなもん描いたらいいべさ、みたいな……。その割には妙なところをノリノリで書いてそうな、というか……。
 しかもこれ、高校生がひょんなことから剣道を始めることになるっていう、一見、青春小説っぽいんですよ?
 まぁ、元からこの人の作品ってこんなんばっかりなんですけどね。
 
 で、この小説の構造的問題はね、アル中側の人物背景が重たすぎる、っていうのがあるんですよ。そのせいで、片方の主人公がぼやけてるの。
 二人主人公がいるとしたら、どちらも同じぐらい、人物背景や人物描写がないと、片方が片方を引き立てて終わるだけなんですよ。読んでる方からしてみたら!
 高校生の方のね、家庭とか、何にもわからないの。母親がハンバーグ作るぐらいだよ! こっちがわかるのは! ってかね、普通さ、息子が得体の知れない坊主から剣道具もらったら、札びらもって、返しに行くよ、私なら! で「うちの子に近づかないでください!」だよ。んでもって、剣道部にもいって「何が起きてるんだ! 一人一人申し開け!」だよ。そんなの。だって怖いもん! いきなりさー、息子がさー、他人からさー新品なら数十万するようなさーものをもらってさー……それが宗教関係者。怖いだろ、普通。
 
 もー、全面的に、こういうツッコミを入れたいわけだよ。
 
 これがねー、20歳ぐらいの子がねー、世間知も常識も教養もなく書いているならねー、文句もないよ。
 60近いおっさん、大学の講師、芥川賞受賞、作家キャリア四十年近く、がこれだよ? 
 別にリアリズムこそ至上なんて思ってないよ。
 いいよ、カフカ的な不条理は好きだよ!
 ただね、これね、別に不条理小説じゃないんだよ! だからね、常識がなさすぎるとね、逆に、これ、なんか意味あるの? って思うじゃん? ないんだよ、別に。
 例えば、「三体」だってさ、ある程度常識的なところから、明らかに異常なことになるから面白いんだよ。 はなっから北京に三体星人が大量にいて、不条理なのが普通、なんてことになったら、読んでられないよ。常識が次々と覆っていくからストーリーがあるんだよな。普通。で、その常識の剥がれから、そもそも私たちが生きている「常識」や「歴史」とはなにか、が浮き上がるんだよな?

 そもそも、青春小説に、異常で常識知らずの集団出すなよ。


 もう一度書くけど、 60近いおっさん、大学の講師、芥川賞受賞、作家キャリア四十年近く、がこれだよ? 

 どうなってんの? この国。

 

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書評 武曲 序


 紫微、それは北斗星より天の極に近く、天帝太一神の常にいる場所とされた星。北辰とも呼び、北辰信仰の中心となる星である。それは仏教における妙見信仰ともつながり、日本では公家のみならず武士たちにも信仰された星である。剣との結びつきで言えば北辰一刀流など、紫微の星がいかに東アジアの信仰において大きいものであったかわかる。
 よって、紫という色は権力を表す色でもある。紫禁城、紫宸殿、紫微宮など、皇帝や天皇の住うところには、紫という文字が使われた。
 宮殿である紫微垣には百日紅がよく植えられていたという。
 
 同時に、北斗七星は季節によってその柄杓の柄の位置を変えるため、天文学や暦の作成に大いに利用されてきた。
 北斗七星はまるで紫微を囲んで動いているように見える。
 まさにそれは天帝の使者のように……。
 中国の正史ではそれぞれ 天枢 天璇 天璣 天権 玉衡開陽 揺光と名前をつけれた。 
 また、密教の世界では貪狼 巨門 禄存 文曲 廉貞 武曲 破軍とそれぞれの星は呼ばれた。
 特に、武曲 破軍これらの星は将軍の星とされ、武士の信仰の対象となった。
 
 そして、堂々と、剣道を題材として 武曲 と題された小説がある。



 自分のバックボーンはずっと関東にあるわけでもないんだけどね、育った土地なんでね……。それに私のバックボーンは茨城とも関係があるわけで、例えば、平将門さんとかね、そういうのが身近なわけです。 
 そうなると、香取神、鹿島神、妙見信仰、などなどが身近なんですよ。
 で、北斗七星は妙見信仰とも関係があり、千葉氏が信仰していた。他にも、千葉有力氏族である大内氏、相馬氏なども進行しており、妙見の名のついた寺社仏閣は多い。
 それこそ、相馬の家紋である、九曜は北斗七星に二つの星をたしたものです。
 この妙見信仰、千葉に住んでいるとよく目にするわけ。
 それに関連する形で、他の北斗七星の星についても色々調べたりするわけですよ。
 その上、千葉の郷土を学ぶということは、剣道や剣術の歴史とも関連するわけです。
 それこそ、千葉と茨城は、もとより武家の強い土地で、それこそ、日本剣道っていうのは、鹿島と香取の二柱によって起きるわけですよ。どちらも剣の神だからね。
 これ、二つの剣の流れが、それぞれ中臣氏と物部氏の二つの神官の家系に連なる、神道的な儀式が関係しているとも言われているわけです。(これ、慶大のサイトで本当に論文読んだんだよ)
 関東は神話の土地というより、中世日本の土地なんだなぁ……。

 そうだよ、ピーナッツと醤油だけじゃないんだよ! 千葉県は!
 でも、ピーナッツキングっていうお土産物のクッキーはおいしいから、来たら買ってね!

 

 っていうか、星とか神とかの名前のついた小説ね、書くなとは言わない。書くなら超がつくほどの名作を書いて欲しい。
 なぜなら、今は無きNAVERとかと同じで なんだ、すっごい検索結果を汚すから。
 ただでさえ、ソシャゲブームで、オリエントの神様とか調べたら、アニメキャラが出てくんだから!!
 
 この書き方で気がつくと思うけど、決して褒めないからね? これから書評する本は。

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芥川賞と横光利一

芥川賞と言えば、芥川龍之介の賞であり新人作家の登竜門だ……。というのは半ば嘘。
 芥川龍之介みたいなものを書いても賞を取れない。
 あの賞の正体は横光利一賞だ。
 横光利一? はてな?
 ってなった人、あなたは正しい。そう、文学マニアしか知らぬ名前だ。とりあえず高校の現代文では習うが、いまいち影は薄いだろう。代表作は「機械」「春は馬車に乗って」などがある。川端康成と新感覚派をつくり、純粋小説論などを書いた……。
 ……知らねーなぁ、という人の方が普通だ。
 文学性でいうと、実存主義的といえば、まぁ、わかりやすい。
 私小説とプロレタリア小説をこっぴどく攻撃した人でもある。

 つまり、芥川賞は横光利一賞なんである。この意見は割と文学マニアから聞く話である。
 簡単に言えば、プロレタリア小説と私小説は芥川賞を取れない。それだけではない、哲学手法的には「実存主義」であることも大事である。
 ここら辺を押さえておくと芥川賞受賞作を読むときの参考になる。
 逆のことを言えば、村上春樹はこれに反しているから取れないのだ。(本人がとりたいと思っているかどうかは別だが)
 しかし、横光利一、戦前でも戦後でも激しく社会的立ち位置が変わらないので、なんだ、政治的に立ち回るのがうまいと言える。(まぁ、私小説とプロレタリア小説を攻撃したからね)
 
 この男のせいで、日本小説はガラパゴス状態である。
 世界の小説の主流は村上春樹のほうだ。日本でも人気作家だけど。世界の主流だから、世界で読まれているんだよ。
 今の世界の小説って、不可思議な書き方をされたものを、暗号を読み解くようにして、ストーリーを読みつつ、背後にあるものを探る、そういうふうに読むものなんだよ。
 そして、日本人もそういう風なものを書いてこなかったわけじゃない。

 問題は、いまだに皆様が芥川賞を、芥川龍之介のネームバリューですごいもんだと思い込んでいるせいで、芥川賞をとるような作品=文学、だと思い込んでいることだ。そう、妙な賞をつくっちまったもんだから、日本では純文学なんていう気色悪い言葉が生まれ、それが小説に限定され、その小説の中身が横光利一的であることに限定されてしまっている。
 で、これまた悪いことに、このおっさん、作風が多様なんだよ。決まった作風がなく、その時代その時代で海外ではやったものを貪欲に取り入れ、コロコロ文体も書く内容も変わるの。器用なのさ。
 これは言い方を変えると、谷崎潤一郎みたいに「こういうもの」っていうのがないの。いい意味でも悪い意味でも。
 「蠅」のような散文的なものも書けば、「春は馬車に乗って」みたいな感傷的なものもかくし、「機械」なんて町工場の人間関係を実験的な文章構造で書くこともしている。
 同じ、新感覚派でも川端康成とは違うのがここ。
(後年の作家になるが、 三島由紀夫みたいに 時々こういうものも書く、ってんじゃなくて、本当に作風が一定しない)

 日本小説における範馬勇次郎みたいな存在なのにも関わらず、横光利一、まぁ、魅力がない。横光を教えたいから高校教師になるなんて人も珍しいだろう。
 
 そして厄介なのは、やはり小説っていうものが、他の分野に影響を与えているのは確かなのだ。例えば漫画アニメや映画、戯曲の表現手法もそうだ。
 日本の漫画も、やはり、海外の漫画と比べると、実存主義的というか、観念的な表現が少ないというか。
 ファンタジー小説でさえ、なろう系みたいに、なんだこう、世界の構造や物体の本質、イデア的なものの説明がおざなりで、主人公がいて、その主人公がこうだから、あれこれ、みたいな……。なんだ、こう、言っていることを自分でもよく理解しないな、こりゃ。

 でもわかるでしょ? なろう系ってものすんごく質の悪い実存主義小説なんですよ。主人公のために世界がある(正確に言えば、主人公の意識が復活するとその世界があり、主人公は世界に先立つ存在である)、主人公は転生した先の世界では本質的には自由な存在だ、だが知らない世界では他人と共にいなければ生きていけない(それをサルトルは地獄と表現した。ここまでは良い)、そこに都合の良い他者である美少女が現れる(こっからおかしくなる)、主人公は「自由」という牢獄を打ち破るために、その世界の魔王なりなんなりを倒すために「社会参加」することになる。
 これ、格闘漫画も同じなんですよ。
 自由を強さに置き換えれば同じ。
 世界で一番強い男に俺はなれる(言い方を変えれば、本質的に俺は自由である)。世界で一番強くなるためには他の格闘者を倒さねばならない。(他者が自分を不自由にしている)。
 
 で、この問題な、あの、児童書っぽいつらしてるとんでもないクオリティの平安時代を舞台にした小説 『なんて素敵にジャパネスク』、あの作者は構造主義的にものを書いているわけですよ。文学を芥川賞受賞作家の書くものと規定することの残念な感じってこれですよ。『なんて素敵にジャパネスク』がなければない作品っていっぱいあるんですよっ!!! 少女向けだからってなめんなって話ですよ!!
 キャピキャピ女子高生ちっくな平安貴族のお嬢さんが主人公でも違和感がないのが、作者が平安時代の社会構造を理解していかいているからでもある。主人公は現代女子高生みたいな性格で描かれるが、そこにある舞台設定は違うので、主人公にありとあらゆる試練が待ち受ける。
 
 何はともあれ 小説の多くが実存主義的に描かれており、それが他の分野にも影響している、ということだ。

 七十年代じゃあるまいに実存主義だけが主流哲学ではない。構造主義っちゅーもんがあるんじゃって話ですよ。

 で、なんでこんなこと書いているのかって、横光利一に一番似ている現代作家の話をしたいからですよ!!
 

 
 
 

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銭湯の二階みたいな場所が欲しい

ヤフオクで四書五経って引くと、
な、なんかレベルの違うもんが出てくるぞ。
むしろ骨董品のレベルのものが……。それも安い。
和本400冊まとめてってどうすんだよこれ。おいとく場所がないよ。(あったら絶対買ってる。んでもって家を私塾っぽい感じにする)

中国古典みたいなものはおそらく在庫が多そうだから焦らない焦らない。

それはそうと、なんのかんの言って漢詩体系40ページぐらいづつ読んでる。

あと、最近描いてる小説論は、小説レビューする前の前段階みたいなもんだから、真剣に読まなくてもいいです。
でも小説とは何かは、小説とは何かと高校か大学で聞かれたら、Bぐらいは取れる返答なので、読んでて損はない仕上がりかと。(自画自賛)

はっきりいうと、古典漢籍の方が好きです。


で、最近思うのが、銭湯の二階みたいなものが現代社会にはないよねってことです。
サロンより敷居が低く、やってくる社会階層も広い、そんな民主的な空間ね。
なんか、サロンってどうよ。サロン。
ポンパドール婦人かな?

銭湯の二階っていうところは、江戸から最近まであったもので、そこに囲碁とか将棋台とかが置かれ、在野の学者や易者がいて、易学や漢籍、俳句などを教えていたような場所。クリナップのサイトが飾っている絵を見てわかるように、武士から町人までいたのがわかる。(元々、刀を預ける場所だからね)
 江戸時代で終わった話ではなく、こういうのが昭和まであったわけ。
 
 ちょいと政治的な話をするよ
 日本学術会議についてなんだけどね……。またインテリ様の標的が大衆や民衆になるんだなーと思うとうんざりしている。「それでも選挙をしたら政権がかつのだ! 大衆は敵だ!」みたいなねー? そも、選挙なんていうものは雑な多数決で、個々の議題について投票してるわけでもないのに。
 これも、行政と対立しているだけで、行政=大衆ではないのに。
 勝手に民衆を敵対ししてるんだから、民衆は離れていくのに決まっているだろうと。

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純粋小説批判

小説とは何か

 ここで記したように、小説の概念はこの近代においても二転三転しています。実のところ、これが、いかに小説というものが文芸ジャンルとして最近のものか、いかに未熟なものかを示すいい例のようにも思えます。
 これは近代アートと同じような変遷を辿っており、ほぼほぼアートの持つ傲慢さを小説という文芸ジャンルは持っていると言ってもいいでしょう。
 簡単に言えば「これを読んで分からないのはあなたが文学を分からないアホだからです」と作家の方が言えるような状態なわけです。映画や漫画で同じことを言えばおそらく炎上します。
 定義できないようなものが、俺は偉いと言っている状態なので、これはゴールポストが永遠と動かされている状態とも言えます。

 本来、文学の王道は詩学であり、それは中国意外の他の文明圏でも同じです。インドでも詩は特別に学ぶべきものでした。
 それはなぜかと言えば、多くの詩は韻文であり、その格や律があるものだからです。
 簡単に言えば、パズルのように解が決まっており、甲乙の判断がつきやすいからです。内容の前提に決まった形があり、その決まった形の中に、詩語という、詩の分野で使われてきた言葉の整理がある。形のある中で、言葉どうしの結びつきや表現などの内容の甲乙があるのです。
 詩というものはこのように学問として考えた時に、その中身が整っています。
 日本でも文学と言えば、大体は漢詩を学ぶことでした。
 文の格は、戯曲にも影響を与えています。
 例えば、シェイクスピアの戯曲は英文学における韻律にそって書かれていますし、歌舞伎の歌は、七五調で書かれています。「月もおぼろに白魚の かがりも霞む 春の空〜」みたいな文章ですね。
 簡単に言えば、格調あるの、格調とは何か、という問題です。
 
 このように、格のない文章が文学の中心を占ている状態は、つい最近の現象でもあります。
 ましてや、日本など、小説を書いている側や売っている側が自ら「純文学」などという箔を、自らつけてしまっている状態です。なぜ私たちは小説作家の金粉ショーを見なくてはならないのでしょうか? こんなことは日本だけで起きていることです。
 文学とは小説だけの専売特許ではありません。あらゆる文芸ジャンルの中の一つとしか言いようがない。
 小説だけなぜこれほど高い地位を与えられ、なぜ文学の最高峰のような顔をしているのでしょうか。戯曲と比べて、何が素晴らしいのでしょうか。
 この状況は、出版技術と商業的な発展が多く影響をしているでしょう。
 言い方を変えれば、現代の出版業態と小説とがマッチしているから、小説がえらいように見えるだけ、とも言えます。
 小説が偉くなれば偉くなるほど、その箔に見合ったものが出版されているかといえば……。
 そもそも、現代にそれほどの批評家がいますか?
 そもそも、批評という文化が廃れているのに、誰が書かれたものの真価を担保するのというのですかね。

 やはり、小説は「近代の侍女」のようなものなのでしょう。小説の価値が高まったのはここ二百年前後ですからね。

 それにしても、純文学という概念はちょっといき過ぎています。作家は文章を作成する側であり、それを”学ぶ”側ではないからです。それを実現するためには、作家は同時に文”学者”でなければなりません。それも、自分の書いたものを一つ一つ学問的にとらえる作家が必要です。そんなのちょっと気持ち悪いですよね……。

 小説だけが特別偉いというわけではないでしょう。

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