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猫柳草庵

猫柳の隠れ里にある、庵です。 よろずのことを語るブログです。 政治やら思想やら宗教の話もするから苦手な人はスルーしてね。

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詩経について

何を読んでも、オカルト解釈やら古代中国の習俗解釈をする本ばっかりなんだけど、これって結局数十年前、戦後に流行った解釈なんだよねと。
 これがまぁ、馴染めない。
 詩経の民俗学解釈がなんとも苦しい気がする。
 民俗学的解釈の怪しいところは、文献に頼らないので、なんとでも言えてしまうところにあるわけだ。
 これは気をつけないといけないところで、あくまで民俗学は「観測者」の目線次第で物事が歪む可能性がある。
 
 民俗学解釈だと川に女が出てきたらすぐに婚姻の儀式だ川の女神だという話になる。しかし、毛詩や朱子の時代だって、結婚式の道すがらわざと濡れるルートを通り、川の女神に婚姻を願う、というのはやっていたはずである。その習俗がありながらそう解釈しないことには”それなりの合理的理由”があったのではないか。あと、川=女神=婚姻の時に濡れるのがよい、というのはアジアではままみられる習慣であり、現代でも行なっている地域はある。っていうか、中国だって今なおそれをしている地域ってあるじゃん。

 つか、現代人の私たちより、近代以前を生きていた人の方が「よほど習俗的習慣については詳しい」のではないのか? 
 その上で、そうではない解釈をするのなら、それなりの理由があるはずではないか。

 所詮、私たちは詩経が編まれて数千年後を生きているわけで、本来の意味を完璧に再構築できるわけがない。考古学がちょっと発展したぐらいで過去の学者の解釈を覆せると考えるのは傲慢すぎる気がする。
 少なくとも、近代化以前の人の方が、伝統的な習俗は真面目にやっていたわけでさ。

 あと、詠み人知れずの詩を読むとなると、その解釈って読み手にぶん投げられている状態なわけですよ。
 なんで、毛詩や朱子の解釈が間違いとは言い切れない。
 毛詩や朱子の解釈は”その時代の朝廷や貴族や士大夫の間では”そう読むことが正当とされていた、という意味では正しい。


 んー、民俗学と考古学と文学をバイアス的に混ぜた結果が、現代の文学部っていらなくない? みたいな感じにつながっている気がする。
 

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文学から逃げるな 詩三百!

みたいな感じの気持ちになっているのですが、横道にそれそれそれて文化人類学やら紋章学やらやっているのは、あれなんですよ、詩経楚辞の本を古本で数冊入手しているわけですが、全然読み進まないのですよ。
 あと、9月の中頃から、崩し字とか読む講義をうけるので、崩字読めるようになったりするかもです。あとblenderつーソフトがアップデートされました。
 まーた横道か。
 まぁ、医学が発達して人生二百年ぐらいになると勝手に信じてるから、まだ大丈夫。(嘘です)

 これ、原因をいうと、詩経楚辞って、結局、あれだ、孔子が学問という概念を打ち立てる前のものなわけでしょう? 宴会だとか冠婚葬祭で読まれ、貴族や庶民が歌い、時に政治を行い、時に生活の場にあった詩なわけですよ。
 これの一体何がこまるって、ほんとに、どこまでが政治的なのかどこまでが宗教的なのかどこまでが庶民的なのか、どこまでが個人的なことなのか、現代を生きる我々には何もわからんのよ。
 折口信夫的な解釈の万葉集のように、まぁ、なんだ、白川静のいう通りに、ほとんどに呪いやオカルト的な意味があるかもしれず、ないかもしれず。
 解釈の仕方をぽーんと現代人に渡しても、なんのこっちゃ、という。

 同時に、政治的に読んでいた儒学者たちの解釈が、現代の主流解釈のいうところの「間違い」なのかどうかと言われれば、これも微妙で、孔子の時代にはもう、政治の場で読まれ、外交の場で読まれていたものもあるわけ。ついでに、「古の時代から続く知を継承する=政治的な正統性の主張」をするためのものにはなっているので、儒学者たちの解釈はその意味では正しいわけです。これは、もっと詳しく春秋時代の外交について勉強せんとわからんのです。

 同時に、当然、詩である以上、個人の感情に寄り添っているものでもあるわけでしょう。

 結局、あれだ、どういう意味なの? という疑問が、文字一つ一つに宿る、そんな読み物であるわけです。
 簡単に読めるのに、読み込んでいくと難しい。
 それが詩経の厄介なところです。

 例えば、竹が出てきても、それがイメージするものが、現代人と古代人では同じなのか。現代人が竹にイメージする青々とした若々しいイメージはどこからくるのか。それが古代から読み継いできた結果、青々とした若々しいイメージが現代人にも引き継がれているのか。それとも、古代人は竹に、何か別の呪いやマジナイのような意味を込めていたのか。それとも、竹に対するイメージは”普遍的”なものなのか。

 しかし、これがもっと時代が下り、”詩人”や”詠人”が出てくると楽なんです。
 弟のいる詩人にとって弟は実在する弟であるし、余程変わった言葉使いをする詩人でなければ、過去の作例を遡ったり、もっと時代の古いものから原典をさがせばいいのです。

 しっかし、詩経は詩のオリジンです。未来があっても過去がない。
 
 つまり、オリジンってクソむずいぞ、ということでした。






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