何を読んでも、オカルト解釈やら古代中国の習俗解釈をする本ばっかりなんだけど、これって結局数十年前、戦後に流行った解釈なんだよねと。
これがまぁ、馴染めない。
詩経の民俗学解釈がなんとも苦しい気がする。
民俗学的解釈の怪しいところは、文献に頼らないので、なんとでも言えてしまうところにあるわけだ。
これは気をつけないといけないところで、あくまで民俗学は「観測者」の目線次第で物事が歪む可能性がある。
民俗学解釈だと川に女が出てきたらすぐに婚姻の儀式だ川の女神だという話になる。しかし、毛詩や朱子の時代だって、結婚式の道すがらわざと濡れるルートを通り、川の女神に婚姻を願う、というのはやっていたはずである。その習俗がありながらそう解釈しないことには”それなりの合理的理由”があったのではないか。あと、川=女神=婚姻の時に濡れるのがよい、というのはアジアではままみられる習慣であり、現代でも行なっている地域はある。っていうか、中国だって今なおそれをしている地域ってあるじゃん。
つか、現代人の私たちより、近代以前を生きていた人の方が「よほど習俗的習慣については詳しい」のではないのか?
その上で、そうではない解釈をするのなら、それなりの理由があるはずではないか。
所詮、私たちは詩経が編まれて数千年後を生きているわけで、本来の意味を完璧に再構築できるわけがない。考古学がちょっと発展したぐらいで過去の学者の解釈を覆せると考えるのは傲慢すぎる気がする。
少なくとも、近代化以前の人の方が、伝統的な習俗は真面目にやっていたわけでさ。
あと、詠み人知れずの詩を読むとなると、その解釈って読み手にぶん投げられている状態なわけですよ。
なんで、毛詩や朱子の解釈が間違いとは言い切れない。
毛詩や朱子の解釈は”その時代の朝廷や貴族や士大夫の間では”そう読むことが正当とされていた、という意味では正しい。
んー、民俗学と考古学と文学をバイアス的に混ぜた結果が、現代の文学部っていらなくない? みたいな感じにつながっている気がする。